越後ビールで乾杯、今日のテーマは「自己肯定感」
今回の晩酌のお供は、新潟の越後ビール。夫が飲むのはピルスナー、妻に注がれたのはエレガントブロンドというエールです。
新潟出張で知り合いと飲んでいたら「持って帰ってください」ともらってきたそう。「どこにでも知り合いいるな」と妻がツッコミを入れつつ、乾杯からスタートします。
あー美味しい。あ、めっちゃ美味しいこれ。
今日のテーマは「自己肯定感」。夫は「硬めの話ですけど、なるべくクイックに」と切り出しますが、妻は「今日軽い話のつもりだったんだけどな」と少し戸惑い気味です。
自己肯定感について。硬めの話ですけど、なるべくクイックに。
そこで、深掘りしすぎない「ライトに語る」路線で進めることに落ち着きました。
なんで夫はこの言葉が気になるのか
夫がこの言葉をテーマに選んだ理由は、まわりの人がとても気軽に「自己肯定感が」と使っているのが気になるから。妻からは「ゆうちゃんなんか気になる言葉が世の中多いですね」といじられます。
個人的には自己肯定感使いすぎじゃね?っていうふうに思っていて。
そこで夫は、そもそもこの言葉についてどう思っているかを妻に尋ねます。
まあ私が(自己肯定感を)使うことはまずないんだけどね。
妻が使わない理由は、自己肯定感に限った話ではなく、本人の感じ方や現在の状態について、むやみに用語でまとめたくないという姿勢からきているそうです。
用語でまとめるのは「逃げ」?医者の訓練が教えたこと
妻がこう考えるようになったのは、医者になってから受けたトレーニングの影響が大きいと話します。専門的な用語で何かをまとめてしまうのは、専門家としてはある種の逃げだというのです。
その、なんかそのわざとその専門的な用語とか、その何か名前がついているものを使うっていうのは結構逃げなのよ。専門家としてはね。
たとえば精神科なら、何でもかんでも「被害妄想」と言ってしまう。神経内科なら、その症状に自信がないのに専門用語で書いてしまう。まだ経験の浅い若手がよくわかっていないまま用語を使うのは危険だと、医者になってすぐに教わったそうです。
妻が受けた教育は、用語で書けないうちは「見たまんまをそのまま日本語で描写しろ」というものでした。
指鼻指試験がどうのこうのとか(と用語で書くのではなく)、人差し指を鼻から検査者の鼻に近づけようとする時に、最初は小刻みだったのがだんだん大きくなって、鼻の近くでギリギリ右にそれるとか、そういうのをちゃんと見たままを描写しろと。
むやみに言葉でまとめると、わかっていないことがかえって伝わらず、正しい情報が残らないので、後からプロが見ても評価できない、というのがその理由です。
妄想言ってた、幻聴言ってたとか言ってまとめるんじゃなくて、本人が言ったまんまを記載することでいろんな議論ができるわけじゃん。
用語にまとめてしまうと、そこで議論が止まって深まらない。だからこそ描写にこだわる、というのが妻の考えです。
「自己肯定感」に戻ると見えてくる違和感
この話を「自己肯定感」に当てはめると、夫のモヤモヤの輪郭が見えてきます。この言葉でまとめてしまうことが、今の自分の本当の状況をごまかしたり、逃げたりすることになるのではないか、というわけです。
自己肯定感という言葉でまとめてしまうことが、本当の今の自分の状況とかを、マスクするというか、ごまかすというか、逃げるのか。
夫が気になっているのは、「私自己肯定感低いんだよね」「あの人自己肯定感高そう」といった使われ方。話しながら、自分がなぜモヤるのかを整理していきます。
結局分かってないものをふわっと自己肯定感って言葉にひっくるめようとしてるのが、ちょっとなんか違和感があるんだろうね。
何をもって、何に対して言っているのかが人によって違う。それなのに、お互い違う定義のまま「わかるわかる」と会話が成立してしまう。夫はこれを「空中戦」と表現します。
違う定義、お互い違う定義なのに、なんかそこでこう、わかるわかる、自己肯定感低いもんね、あの人みたいな。なんかそういう駆け引きが生まれるみたいなのも嫌なんだろうね。
言葉の定義にこだわる夫、二人の「解像度」
夫は昔から言葉の定義をよく調べるタイプ。妻は、二人の出会いの日に夫が「SOSってどういう意味だっけ?」と立ち返り出したことを、今でも鮮明に覚えているそうです。
私がむやみにSOSって言葉を使おうとしたら、待って、SOSってどういう意味だっけ?とか立ち返りだしたのが出会いなの。
いつからそうなったのかを振り返ると、夫はスマホで手軽に調べられるようになってからかもしれないと言います。ただ、子供の頃から広辞苑が愛読書だったとも。
昔から俺子供時代から結構辞書が好きだった。広辞苑も俺めっちゃめちゃ見てた。
夫が語る「解像度」の話が、この回の芯に触れます。同じ越後ビールでも、人によっては「それピルスナーだよ」と区別したい人と、「同じ越後ビールでよくない?」で済む人がいる、という例えです。
我々は比較的この生きてる世界のこの言葉に関しての解像度を、このぐらいの解像度で喋った方が面白いねって思ってる人種なんじゃない。
つまり夫は、言葉の定義がはっきりしたほうが会話が面白いという価値観の持ち主で、二人はそこにこだわりたい人種だという整理に落ち着きます。
辞書にも載っていない?言葉に詰め込まれすぎた意味
妻は、Yahoo!知恵袋で「広辞苑に自己肯定感は載っていますか?」という質問に、2025年時点で「載っていません」と回答している人がいたことを紹介します。それだけ、まだ俗世間で使われている言葉なのかもしれない、という話です。
一方で、辞書サイトのWeblioには説明があります。妻がその定義を読み上げると、一つの言葉に含まれる意図があまりに多いことが浮かび上がってきました。
自己肯定感とは、自分自身の価値や能力を認識し肯定する心の状態を指す言葉である。
自分の意見や感情を大切にする傾向、困難な状況でも自分の力を信じて行動できること、自己肯定感を高める方法まで、説明には多くの要素が詰まっています。だからこそ、どの部分を指して言っているのかがわからなくなる、というのが妻の指摘です。
何を指して、何をこう感じ取って言ってんのかっていうのは、やっぱそこ具体的に話さないと会話になんないんだよな。広がんないね。
夫も、自己理解、自己受容、自己効力感など、近いけれど違う概念がいくつも重なっていることを挙げます。
自分自身をどう捉えているかという理解。まずここから始まると妻は整理します。
自分の良いところも悪いところも受け入れること。ありのままの自分を認める感覚。
困難な状況でも自分の力を信じて行動できるという感覚。最近よく聞く言葉とも触れられます。
妻は、こうした段階がいくつも含まれているから、余計にふわっとしてしまうのだろうと話します。
好き嫌いと肯定は別もの、そして「正しい自己理解」の問題
夫は、自分の良いところ悪いところを受け入れることと、自分を肯定することは別だと指摘します。自分の好きな部分があるからといって、自己肯定しているわけではない、というわけです。
自分のことが好きな部分があるからって自己肯定してるわけじゃないっていうかね。
行動についても、楽観的な面と悲観的な面が常に両側面ある。それなのに「自己肯定感が高い」と一言でまとめられてしまうことに、夫は引っかかります。
妻はさらに、その手前にある問題を投げかけます。自己肯定感のベースにある自己理解や自己評価は、そもそも適切なのかという問いです。
そもそもその自己肯定感のベースにある自己理解は正しい、適切なんですか?って、自己評価適切ですか?っていう話もあるし。
二人は、この言葉が「あの人らしい」といったレッテルに近いのではないか、とも話します。名付けることで理解しようとしたり、安心したりする側面があるのだろう、という見立てです。
名前をつけることで安心するみたいな。カテゴライズすることで、自己肯定感が低い人の層であるというか、その部類であるみたいになることで自分だけじゃないみたいな。
夫は、この構図はHSPや血液型による自己診断に近いと感じると言います。「私HSPなんで」「私A型なんで」といった、安易な自己診断に似ているというのです。
使う人を否定はしない、ただ掘り下げたくなる
とはいえ二人は、この言葉を使う人を否定しているわけではありません。妻は、使っているのを見ても何とも思わないけれど、具体的にどういうことなのかは聞きたくなる、と話します。
自己肯定感が自分で高いって言ってたりとか、低いって言ってる人はいずれも、え、つまりどういうこと?ってこう聞きたくなる。
ただし、自分ではなく誰かに対して使うのは、まとめてしまう感じがあって少し失礼になる。自分もまとめられたくないから、人に対しては積極的に使わない、というのが妻のスタンスです。
妻は、この言葉が「あの人は自己肯定感が強いから成功している」といった理由付けにうまく使われている気がする、とも指摘します。それ自体は悪くないけれど、そこから深める力がないと理解が止まってしまう、というのが気になる点です。
都合のいい言葉として使われてる感がすごいある。
便利で、いろんなニュアンスで取れる。だからこそ流行っている。それはみんなにとって、ちょうどいい言葉なのだろう、と二人は納得します。
モヤモヤの正体がわかった夫の「満足」
話し終えて、夫は「満足した」と言います。その満足の中身は、自分がなぜこの言葉にモヤモヤしていたのかがわかったから、というものでした。
自分がなぜ自己肯定感という言葉にモヤモヤしてるかがわかったから。
夫がたどり着いたモヤモヤの正体は、言葉の曖昧さと、使っている人同士でも意味がすれ違う可能性。そのうえ、違うと思っても突っ込めないことまで含めてモヤるのだ、という整理です。
なんか俺の考えてるのと多分違えみたいなのが多分ちょっと思うけど、かといって突っ込めないことも含めてモヤるんだなってことがわかった。
妻は、人はなんでも名付けたい、まとめたい、一言で言い表したい習性があると言います。それは便利だからで、夫にもその習性はある、と笑います。
最後に二人は、リスナーが「自己肯定感」や「自己効力感」という言葉にどんな印象を持っているかを聞きたいと呼びかけ、お便りを酒の肴にしますと締めくくりました。
まとめ
「自己肯定感」という言葉へのモヤモヤを入り口に、医者夫婦が「用語でまとめること」と「解像度をもって話すこと」の違いを掘り下げた回でした。言葉を否定するのではなく、その中身を具体的に問い直す姿勢が印象的です。
- 妻は精神科・神経内科の訓練から、わからないうちは用語でまとめず「見たまま描写する」ことを学んだ
- 夫のモヤモヤの正体は、言葉の曖昧さと、使う人同士でも意味がすれ違う点にあった
- 自己肯定感には自己理解・自己受容・自己効力感など、近いが異なる概念が重なっている
- そもそも土台となる自己理解や自己評価が適切かという問いも残る
- 二人は使う人を否定せず、ただ曖昧さを放置せず掘り下げたい「人種」だと結論づけた





