産業医大の学生が学生時代に迫られる「臨床医か産業医か」
産業医の本音、第56回。前回は小橋さんの産業医科大学の学生時代の思い出が中心でした。今回は、そこから続く進路選択とマッチング制度の話です。
産業医科大学には、学生のうちに進路を決めなければならないという特徴があります。具体的には、大学内のどの医局に入るかを基本的に決めていく必要があるといいます。
なお、これは2004年に研修医のローテーション制度が始まった以降の話が前提です。小橋さんの世代は2008年、2009年ごろだったといいます。
そのため、5年生の臨床実習が本格的に始まるころから、同級生と将来の話をする機会が増えてくると振り返ります。
産業医大ならではの「臨床医か、産業医か」という問い
進路の話には生々しいものもあったといいます。ノリが合わない、あの教授が退官したら次は誰が教授になる、といった話です。
そのうえで、産業医大らしい話題といえば、臨床医になるのか産業医になるのかという問いだったと小橋さんは話します。
この科に進みたいんだけど、あそこの先生たちちょっとノリが合わないみたいなのとか。
最初から進路を決めている人もいますが、あるあるなのは、産業医をやるにしても「いつから産業をやるのか」という悩みだったといいます。
たとえばメンタルヘルスなら、最初から産業医系の教室に入るのか、まずは臨床系の精神医学の教室に入るのか。働く女性の健康なら、産業医の立場からか産婦人科医の立場からか。そこで悩む同級生もいたと語ります。
産業医志望だったはずが「臨床医もいいな」と揺れた学生時代
では小橋さん自身はどうだったのか。前回語られた通り、小橋さんは産業医に興味があって産業医大に入りました。ただ、入学後は臨床医もいいなと正直思っていたといいます。
3年生、4年生で臨床を学び、5年生で病院実習をやると、臨床医としてのやりがいや楽しさが芽生えてきたと振り返ります。
教授や先生方の影響も大きく、当時この教室なら入りたいと思ったのが、救急、循環器、放射線あたりで、実際に医局説明会にも行ったといいます。
もちろん産業医系の医局説明会にもたくさん行きました。ただ、学生のうちに決めろと言われても、そう簡単には決められないというのが当時の結論でした。
付き合ったこともないのに、こんな人がいいとか、あんな人と結婚したいとか、そんなんばっかり言ってても始まらないじゃないですか。まずはDoですよ。
産業医はやりたい。でもまずはジェネラルに臨床をやってみないと何とも言えない。そのために研修医と主治医の2つを短期間でもガッツリ経験したい。これが起点だったと語ります。
1年臨床を経験できる産業医実務研修センターという選択
そんな小橋さんのニーズに合う教室が、産業医系の医局の中にあったといいます。それが自身の選択を決める要因になりました。
1年目、2年目は初期研修医で、これはどの教室も同じです。ポイントは3年目で、主治医ができるようになるこの年に1年間臨床をやってよく、4年目に産業医大に戻るという教室があったといいます。
それが産業医実務研修センターという教室でした。産業医系の医局の中でも、よりジェネラルに実務に即した体系的な修練ができる場だったと説明します。
小橋さんは、各論よりも総論、研究よりも実務のほうに興味があり、向き不向きの観点でもそちらが合っていると実感していたといいます。
尊敬できる先生方が多かったこともあり、産業医実務研修センターへの入局を決めたのが6年生の春ごろでした。
一方で小橋さんは、途中で臨床医の道に進みたくなったら、そのとき医局を変わればいいくらいにも思っていたと明かします。
医局によっては、途中で抜けたら許さないという雰囲気を出すところもあったといいます。ただ、産業医実務研修センターの先生方は個人の意思決定を尊重する姿勢が伝わってきたため、安心して入局できたと語ります。
卒業試験とマッチング。2つの課題を同時に抱えた6年生
医局選びが一段落したものの、6年生には別の課題がありました。卒業試験と医師国家試験に合格することと、初期研修医をやる病院を探すことです。
卒業試験や医師国家試験に合格しないと医師免許を取得できず、初期研修医にもなれません。そのため6年生は朝から晩まで勉強しつつ、研修先探しも進める必要があります。
これが大変なのは、受け入れ側の病院の数が非常に多いからです。小橋さんも4年生、5年生ごろから病院見学に行きましたが、絶対にここがいいという1つを当時見つけきれなかったといいます。
初期研修医先はマッチング制度で決まります。小橋さんはこれを、野球のドラフト会議のようなものだと説明します。
希望を提出
学生と病院がそれぞれ第1希望、第2希望と候補を順に出す
マッチング
お互いの希望が合った組み合わせを決める
研修先が決定
マッチした病院がほぼ強制的に初期研修医先になる
マッチング希望を出せなかった理由と、あえての2次マッチ
6年生の7月末ごろがマッチング希望の締め切りで、10月ごろに結果が発表されます。ところが小橋さんは、このマッチング希望を出せなかったと明かします。
選択肢がないこともストレスですが、ありすぎても決められないストレスがある、と小橋さんは振り返ります。どうしてもここという1つがなかったといいます。
適当に書いた第3希望、第4希望の病院に決まってもモチベーションを保てる自信がなく、相手方にも失礼ではないかと思ったといいます。
さらに切実だったのが勉強の遅れです。卒業試験も6月、7月ごろにあり、このままでは受からないかもしれないほど出遅れている感覚があったと語ります。
よし、もうここは選択と集中だってことで、とりあえず今はもう勉強に集中しようと。
そこで小橋さんはマッチングを捨て、勉強に集中することを選びました。ただし、これで研修先探しが終わるわけではなかったといいます。
10月のマッチングで決まらなくても、定員割れになった病院に直接就活すればよいからです。卒業試験は全大学で行われるため、1次でマッチした人が卒業試験に落ちれば、その席が空くことになります。
人気の病院でも、そうした取り消しによって毎年一定の空席が生じます。そのため、1次マッチが終わった後に人気病院へダイレクトにアプローチできることもあるといいます。
自分の場合は意外とそっちの方がいいかもってことで、おすすめはしないですけれども、2次マッチに振り切ったってことで。
結果として卒業試験を無事に乗り切り、同級生が10月にマッチングを決めるころから、小橋さんは腰を据えて研修先を探し始めることができたといいます。
救急病院での見学が「臨床医人生を切り開いた」1日
研修先探しでも、小橋さんは他力本願だったと笑います。仲の良かった1つ上の先輩に連絡したご縁が、次につながりました。
福岡の街中にある救急病院が一旦フルマッチしたものの、卒業試験に落ちた人が出て1名を新規募集していると知り、11月に見学に行ったといいます。
2つ上の産業医大の先輩が当時2年目の研修医として勤務しており、その先生について1日を回りました。この日の光景が脳裏に焼き付いていると小橋さんは語ります。
いやもう本当、その日の光景が、自分の臨床医人生を切り開いてくれたというか、それぐらい脳裏に焼き付いてて。
その病院は地域の中核的な民間救急病院で、当時は1日10台から20台、年間4000台から5000台の救急車を受け入れていたといいます。
そこでの研修医の期待値はコンセプトがはっきりしていました。2年間でいろいろな科をローテートしつつ、とにかく2年間を通じて救急をやるという方針です。
オペなどが入っていなければ、救急車が来たら救急外来に降りてくる。実践を通じてまず救急から学べというやり方でした。
研修医が主役の現場を見て決めた、臨床3年の起点
見学したその日も、日中だけで救急車が6、7台来ていたといいます。基本的に研修医が前面に立って対応を進めていく現場でした。
上級医の下ではあるものの、研修医が問診、診察、手技、オーダー、入院までの一連の対応を主体的にどんどん進めていく。小橋さんはその姿に強く惹かれたと語ります。
研修医がここまで中心になって生き生き活動しているようなところって正直見学しててなかったんですよ。純粋にあ、これかっこいいなって。
見学後は、面倒見のよい当時の院長が近くに飲みに連れて行ってくれたといいます。うちに来ればほとんどの救急疾患に対応できるようになると言われました。
産業医大から毎年1人は入ってきているがみんな優秀だ、と肯定的に語ってもらえたことも印象に残っているようです。
小橋さんはその場で研修をやりたいと伝え、翌日か翌々日には内定の連絡をもらったといいます。まずは3年間臨床をがっつりやってから先を考えたいという方針に、いいご縁だったと振り返ります。
その後、小橋さんは医師国家試験にも合格し、2010年から初期研修医として社会人デビューするフェーズに入っていきます。
まとめ
今回は、産業医科大学ならではの進路選択と、初期研修医のマッチング制度をめぐる小橋さんの回想でした。臨床医か産業医かで揺れながらも、まずは臨床を経験するという方針で自分に合う道を選んだ過程が語られました。
- 産業医大では、学生のうちに医局を選び、臨床医か産業医かの進路を決める必要がある
- 小橋さんは、3年目に1年臨床を経験できる産業医実務研修センターへの入局を6年生の春に決めた
- 卒業試験の勉強を優先してマッチング希望を出さず、あえて2次マッチに振り切る選択をした
- 卒業試験の合否によって人気病院にも空席が生じ、1次マッチ後にダイレクトなアプローチが可能になる
- 研修医が主役として動く福岡の救急病院に惹かれ、まず3年間臨床をやる起点となった




