救急を叩き込まれた研修体制と、力を「つけざるを得ない」夜
今回から小橋さんは、自身の臨床時代を取り上げていきます。2010年から、救急車が年に4000台から5000台ほど来る福岡の街中の中核病院で、初期研修としての道を歩み始めました。
同期は6人。初期研修は2年間あるため、上下合わせて12人という研修体制でした。ほぼ九州の、いろんな大学出身者が集まっていたため、刺激を受けて楽しかったと話しています。
上級医には厳しい先生もいましたが、基本的にはさっぱりしたいい先生が多く、研修医をスタートさせる環境としてはとてもよかったと振り返ります。
この病院は「2年間を通じてとにかく救急をやりなさい」というスタンスで、当直も2年間すべて救急当直でした。日中は救急車が来るとピッチが鳴り、空いている研修医や該当科の上級医が救急外来へ集まってきます。
そこでは診察する係、点滴などの手技をする係、検査オーダーを出す係と役割分担して対応します。日中だけで5、6台は普通に救急車が来るため、日によってはあっという間に夕方になったといいます。
ただし本番は夜でした。夜は研修医と上級医の二人体制で、救急車もウォークインも、病棟の急変対応もすべて引き受けます。この体制について小橋さんは、力がつくというより力をつけざるを得なかったと語ります。
人手が足りない分、自分がやるしかない。そういうことが日中に比べて夜はめちゃくちゃ多かったんですね。
翌朝カンファレンスの「総ツッコミ」で身についたもの
当直の翌朝には全体カンファレンスがあり、研修医は当直中に何があったかをプレゼンしなければなりませんでした。夜の対応を、朝までに内容としてまとめる必要があったのです。
具体的には、受け入れた救急車の台数や、入院に至った患者さんについて一例ずつ報告します。夜間は当直体で対応した患者さんを、翌朝以降は主治医へ引き渡すためです。
報告では、患者さんの年齢や来院の経緯、来院時のバイタル、診察所見、実施した血液検査や画像検査の内容を伝えます。部屋の大きなモニターに検査データや画像を映しながら、診断と治療の流れを説明していきました。
その場では、なぜこの検査をやっていないのか、ここにこういう所見があるのではないか、といった指摘を各科の先生から受けます。多い日は一晩で10人ほどが入院していたといいます。
もう本当いろんな先生から総ツッコミを受けながらですね。
こうした実践を通じて、2年間でめまい、失神、胸痛、腹痛、吐血、事故、外傷など、一通りの救急疾患を経験しました。繁華街が近く、急性アルコール中毒や薬物の対応も日常的だったといいます。
中には暴れたり脱走したりする症例もあり、こちらが殺されるのではと感じるような場面もいくつかあったと振り返ります。
生活保護の患者から考えさせられた「健康格差」
半分笑い話として、福岡ドームも近かったため、落ち着いている日は集会室でホークスの試合を見ることもありました。ファウルボールが客に当たると、10分後にはその人が救急車で運ばれてくることもあったといいます。
一方で、臨床時代ならではの経験として、働いていない人、つまり生活保護の方を数多く診たことを挙げています。産業医は基本的に働いている人しか見ませんが、臨床医は違いました。
対応の中で「なんだかな」と思うこともありましたが、同時に必要なセーフティーネットだと感じる場面も多かったといいます。救急医をしながら、社会課題について考えさせられた2年間だったと語ります。
研修医を始めて最初の2、3ヶ月は正直使い物にならなかったものの、実践と学びを繰り返すことで、1年近く経った頃には一定の自信を持って救急対応ができるようになったと振り返ります。
循環器で味わった「何もできない」急変対応
救急以外では、内科、外科、小児、産婦、地域、精神、眼科、耳鼻科など、いろいろな科をローテーションしました。学生時代の実習とは感じ方も変わり、脳外や整形は特に楽しかったといいます。
その中で一番思い出に残っているのが循環器内科でした。研修医になりたてで最初に回った科であること、そして心臓が一分一秒を争う臓器であることが大きかったと話します。
スピーディーかつ正確、これが求められるわけですね。
当時の循環器の指導医は、患者さんや他の先生からの評判がとても良い人でした。どんなときも笑顔で丁寧、それでいて仕事が早い。小橋さんは今でもその先生をイメージしながら仕事をすることがあるといいます。
一方で、循環器は一分一秒が勝負の世界です。研修医が要領の悪いことをして先生の閾値を超えると、一転してとんでもなく怖くなったと振り返ります。
そんな中、ある日中に循環器病棟で急変が起こります。バイタルサインが急に乱れたり止まったりする、かなりピンチな状態のことです。そのとき病棟にいたのは、研修医になって2週間目ほどの小橋さんだけでした。
看護師に呼ばれて駆けつけたものの、頭の中はパニックでした。患者さんの顔は真っ青、血圧も低く、呼吸も苦しそう。酸素と輸液は入れたものの、それだけでは一向に良くなりません。
そこへ指導医が到着します。オロオロしている小橋さんを見るなり、開口一番、超冷たい感じで言われたのがこの一言でした。
(指導医から)何もできないんだったら下がっててもらっていいですか?みたいな。
指導医はすぐさま急変患者に気管挿管をして人工呼吸器につなぎ、あれよあれよという間にICUへ運び込んでいきました。目の前で苦しむ患者さんに何もできなかったことに、小橋さんは自分に腹が立ち、悔しさを覚えたといいます。
「あなた医者でしょ」という指導医の言葉
その日の夕方、指導医の仕事が終わる頃、小橋さんは部屋へ謝りに行きました。「明日から循環器を回らなくていい」ぐらいの言葉は覚悟していたといいます。
指導医は確かに怒っていましたが、どちらかというと諭す口調でした。そしてこの後の医師像の根幹になる言葉を伝えます。
(指導医が)あなた医者でしょ。もし本当に周りに(自分)以外に誰も医者がいない時に、今日みたいなことが起こったらどうするんですか。
カテーテルとかアブレーションとか、今循環器だからもちろんそういう勉強は必要です。でも、まずは目の前の患者さんの命が危ない時に責任を持って次につなげる。
それは将来(自分が)どんな科に進もうとも、医者として最低限必要なことなんじゃないですか?
この言葉は今でも覚えていると小橋さんは語ります。最初の2ヶ月が循環器で辛いことも多かったものの、最初にそういう経験ができたからこそ、初期研修の2年間がより充実したものになったと振り返ります。
当時の指導医には、医師としての礎を作ってもらったと感謝を述べています。
急変シミュレーションが習慣に。実は「ホワイト」だった労働環境
急変の一件は小橋さんの中で大きく、それ以降、目の前の患者さんが急変したらどうするかというシミュレーションをよくするようになったといいます。
それは仕事中だけではありませんでした。休みの日に天神や大名といった街を歩いていても、ここで人が倒れて心肺停止になったらどうするか、車が突っ込んで複数人が巻き込まれたらどう対応するかを考えていたと語ります。
一方で、この話だけを聞くとブラックな病院に思われがちですが、実際は残業や休日出勤もほとんどなく、当直明けもそのまま帰れる仕組みでした。働き方改革が言われる前ですが、労働環境はかなりホワイトだったといいます。
医者同士だけでなく、コメディカルや事務のメンバーともよく飲みに行き、遊びに行っていました。今も深い付き合いが続いているわけではないものの、多方面で活躍していると知ると嬉しくなると話しています。
小橋さんは、この初期研修の2年間を、充実した忘れられない期間であり、いい思い出がたくさん残っていると締めくくりました。
まとめ
救急を中心に据えた研修体制で「力をつけざるを得ない」日々を送った小橋さんにとって、循環器での急変対応の失敗と、そこで指導医から受けた言葉が、その後の医師像の原点になりました。厳しさの中に、感謝と充実がにじむ回でした。
- 救急車が年4000〜5000台来る福岡の中核病院で、2年間を通じて救急中心の初期研修を経験した
- 夜間は研修医と上級医の二人体制で、翌朝のカンファレンスでのプレゼンを通じて力が鍛えられた
- 研修2週間目に循環器病棟の急変に対応できず、指導医から「あなた医者でしょ」と諭された
- 「命が危ない時に責任を持って次につなげる」という言葉が、その後の医師像の礎になった
- 話だけ聞くと過酷に思えるが、残業や休日出勤は少なく、労働環境は意外とホワイトだった


