労務基盤づくりは何から考えればいい?
今回の産業医の本音は、前回に続いて社会保険労務士法人ONE HEARTの吉田優一さんをゲストに迎えた回です。テーマは、労務基盤を実際に整えていく上でのポイントです。
司会の小橋正樹さんは、株式会社oneself.の代表で統括産業医です。自身の会社で就業規則や雇用契約書を作った経験も交えながら、吉田さんに質問を重ねていきます。
吉田さんはこれまで、労務基盤づくりに関わってきた会社の数について、次のように話します。
嘘なく100社は超えてるんじゃないかなと思います。
吉田さんによれば、労務体制の設計で一番の制約になるのは業態だといいます。たとえば店舗を構えている会社ではフレックスタイム制の導入が難しく、変形労働時間制になりやすいなど、業種・業態ごとの縛りが出てきます。
そのうえで吉田さんは、会社の経営方針や業態と相談しながら、最適な働き方の設計を作ってきたと語ります。
法律・就業規則・雇用契約、優先されるのはどれ
労働基準法や就業規則、雇用契約、労使協定など、労務には多くの取り決めがあります。小橋さんは、これらを整理するための大前提となる考え方を吉田さんにたずねます。
吉田さんがまず挙げたのは、法律・就業規則・雇用契約書の優先順位という考え方です。
(知っておくべきは)法律と就業規則と雇用契約書の優先順位です。
吉田さんはこれをシンプルに言い換えます。「労働者から見て、法律・就業規則・雇用契約書の3つを比較し、一番有利なものがその人との契約内容になる」という理解でいてほしいといいます。
具体例として、吉田さんは最低賃金のケースを挙げます。たとえば、法律の最低賃金が時給1163円、就業規則で当社の最低賃金は1200円と定められているとします。
この状況で、労働者本人が「見習いなので時給1000円でいい」と合意したとしても、その合意は通らないと吉田さんは説明します。
本人で合意したとしても有利なものが適用されてしまうので、その人の時給は1200円っていうふうに読み替えられるような状態になります。
つまり、たとえ本人が納得していても、労働者にとって一番有利な条件が適用されるということです。
法律・就業規則・雇用契約書
労働者にとって一番有利なもの(本人の合意より優先)
就業規則を「有利にしすぎる」危うさ
吉田さんは、働き方を作る上で重要なのはやはり就業規則だといいます。就業規則は働き方のルールブックであると同時に、本人との契約という面も持つからです。
たとえば退職金を出すつもりがないのに、就業規則に退職金ありと書いてしまうと、会社には退職金を支給する義務が生じます。実態と合わない就業規則を作ると、後々会社の予算計画が狂うこともあると吉田さんは指摘します。
ここから吉田さんは、就業規則を「労働者に有利にしすぎる」ことのリスクを説明します。有利にすること自体はよいことですが、注意が必要だといいます。
本当にそれって後で守れる約束なんですよねっていうのは確認した上で、専門家と相談して就業規則を作った方がいいと思います。
続いて吉田さんは、実際に友人の会社で起きた失敗事例を紹介します。その会社はスタートアップで、退職金制度をまだ作らないつもりでした。
ところが、他社から借りてきた就業規則をテンプレートのまま使っており、元の会社の就業規則にあった退職金制度を消し忘れていたのです。
(借りてきた就業規則を)そのまま使っててですね、元の会社の就業規則には退職金制度があったんです。
その後、ある労働者とトラブルになった際、「うちの就業規則には退職金が書いてあるのだから払ってほしい」と主張されました。優先順位のルール通り、就業規則に退職金ありと書いてある以上、会社は支払うことになりました。
しかも、話はそれで終わりませんでした。今度は残りのスタッフに対して、就業規則を不利益変更する必要が出てきたのです。
吉田さんは、この訂正がいかに難しいかを語ります。ミスだったと説明しても、スタッフが同意してくれるとは限らないからです。
(退職金制度が)あるから今も続けてるんですとか言われたら、それはその通りですよねって話になっちゃうからすごい大変。
原因
借りた就業規則の退職金制度を消し忘れて運用
一次被害
労働者から退職金を請求され、支払い義務が発生
二次被害
他スタッフの就業規則を不利益変更する必要が生じる
難所
訂正に同意しないスタッフが出るとさらに紛糾
就業規則がなくても雇用契約で外せない「時間とお金」
小橋さんは自身の経験に触れます。oneself.で最初の社員を雇うとき、まだ就業規則はありませんでした。就業規則がない状態で雇用契約書を作るときの注意点を吉田さんにたずねます。
吉田さんはまず、労働条件でトラブルになりやすいポイントは2つあると切り出します。小橋さんは、産業医の経験から業務の内容や働く場所を挙げました。
吉田さんは、働く場所も確かに重要だと応じます。東京で採用されたのにいきなり北海道と言われたり、保育士として採用されたのに違う仕事をさせられたりすればトラブルになる、というわけです。
小橋さんは、復職の場面で配置転換が論点になることが多いと補足します。その人が配置転換できるかどうかは、労働契約の内容がポイントになるといいます。
一方で吉田さんは、無制限の配置転換を認めない裁判例も出てきており、時代が変わってきたと指摘します。そのうえで、自身が一番押さえてほしいポイントを挙げます。
(一番押さえておくべきは)すごくシンプルなんですけど、時間とお金です。
吉田さんは、労働契約とは時間をお金に変える仕組みでもあり、両方が重要だと説明します。まず時間については、所定労働日がいつで、何時から何時まで働くのかを正しく雇用契約書に記録しておく必要があるといいます。
これがあいまいだと、遅刻を遅刻と言えない事態も起こりえます。さらに、年末年始や夏休みがどこからどこまで休みなのかを決めずに契約を結んでしまう見落としも多いと吉田さんは注意を促します。
お金については、まず給与としていくら払うのかで認識が食い違うと必ずトラブルになるといいます。加えて、スタートアップに多い固定残業手当についても具体的に触れます。
いくら分で何時間の残業手当なのかが含まれているのかどうかっていうのも、ちゃんと明記した方がいいと思います。
小橋さんは、経営者としては成果に対して支払いたい感覚があるものの、労働者である以上は時間に対してお金を払うため、その取り決めが大事だという吉田さんの以前の指摘を思い出したと語ります。
所定労働日・始業終業時刻・年末年始や夏休みなどの休日を明記する
支払う金額と、固定残業手当なら何時間分・いくら分かを明記する
最初の一人の働き方が組織を決める
吉田さんは、雇用契約書は法律で記載項目が決まっているため、厚生労働省のホームページや雛形と見比べれば記載漏れをかなり減らせるとアドバイスします。
ただし小橋さんは、雛形を使っても就業規則ほどではないにせよトラブルになるケースがあるため、専門家に聞いた方がよいのかとたずねます。吉田さんは、社労士の宣伝のようになると前置きしつつ、最初の一人の働き方の重要性を語ります。
最初の一人の働き方ってすごい重要なんですよ。
民事上の契約としては会社とその人の働き方の問題にすぎませんが、組織設計の観点では、一人目の働き方が二人目以降に影響すると吉田さんはいいます。一人目を見ながら二人目は育つからです。
さらに吉田さんは、働き方は会社の理念に基づいて決めるものだと語ります。自立を重んじる会社ならフレックスを入れ、規律を重んじる会社なら全員が定時で一斉にスタートする通常の労働時間制を選ぶ、といった具合です。
そのため、一人目の契約を結ぶ段階で社労士を入れ、どういう働き方にしたいかを決めた方がよいと吉田さんは勧めます。加えて、就業規則がないと懲戒処分もできず、会社として規律を保てないと指摘します。
そもそも労使協定は何のためにある?
ここから吉田さんは、社労士試験でも混同しやすいという労使協定と労働協約の違いを解説していきます。小橋さんも、意外と理解されていないテーマだとして説明を求めます。
吉田さんによれば、労使協定とはその名の通り、労働者と使用者が協定する文書のことです。ポイントは、法人単位ではなく事業場ごとに作る点です。
たとえば東京・名古屋・大阪に事業場がある会社なら、それぞれが事業場となり、各事業場で労使協定書を作ります。労働組合がない場合は、会社側の代表と、その事業場の労働者の過半数代表者が協定書にサインすることで成立します。
では、そもそも労使協定は何のためにあるのか。吉田さんは、労働基準法には「やってはいけないこと」があると説明します。代表例が残業です。
1日8時間・週40時間という法定労働時間を超えて働かせると、素の状態では1分の残業でもその時点で労働基準法違反になります。
8時間働かせて、そこから1分残業させた時点で労働基準法違反が成立しちゃうんです。
それでも世の中の会社が違法にならないのは、労使協定書があるからだと吉田さんはいいます。労使協定があると、本来は法律違反だった行為が違反ではなくなる効果が生まれます。
残業についてのこの協定が、いわゆる36協定です。小橋さんも「36協定のことか」と確認し、吉田さんが肯定します。
吉田さんは、労使協定が必要な例として賃金控除も挙げます。給与から所得税や社会保険料以外のもの、たとえばレクリエーション費などを独自に天引きするには、賃金控除の労使協定が必要です。
その法律違反を回避するための手段が、労使協定書の締結です。
小橋さんはこれを「合法的に違法ができる」と表現しました。
また、法律が変われば新たに必要な労使協定も出てきます。36協定も、時間外労働の上限規制が入った際に様式そのものが変わったため、前年のコピーをそのまま使うと時代遅れになる可能性があると吉田さんは注意を促します。
労働協約という「例外」を見落とさない
吉田さんは最後に労働協約を取り上げます。日本では労働組合の活動が少なく、なじみは薄いものの、労働組合を作り活動することは憲法上の権利として保障されていると説明します。
労働者が団結して使用者に労働条件の改善を求めたり交渉したりするのは自由であり、会社側は団体交渉の申し入れがあれば誠実に対応する義務があります。忙しさを理由に日程をずらすのは可能ですが、一切応じないのは法律違反になると吉田さんはいいます。
交渉の結果、双方が合意した内容を文書にし、使用者側と労働組合側の署名や押印が入ったものが労働協約です。吉田さんは、この労働協約が持つ特殊な効力を説明します。
労働協約で定められたものは、就業規則とか雇用契約の内容を下回ってたとしても、そちらが優先されるっていうふうになってます。
吉田さんは、産業医の立場に引きつけた例も挙げます。たとえば「解雇の際は労働組合と事前協議する」という労働協約があった場合です。
産業医が相談を受けて「この人は労務提供不可能」と判断するのは真っ当なアドバイスですが、労働協約の存在まで確認したうえで手続きを進めるよう助言できれば、サービスとしてより良いと吉田さんは語ります。小橋さんは、そこまで考えたことがなかったと感想を述べます。
労働組合対応は10年で一番大変だった
小橋さんは、労働組合の組織率が下がっているとはいえ、どの企業でもあり得る話なのかとたずねます。吉田さんは、まさにその通りだと答えます。
トヨタの労働組合のように大企業のイメージが強い一方、中小企業でもユニオンといって、別の会社の労働者と組んで労働組合を作ることが可能だからです。
うちの会社には労働組合がないから安泰だと思ってる会社の経営者がいたら、それは間違いです。
そして吉田さんは、10年以上の社労士経験の中で一番大変だったものとして労働組合対応を挙げます。問題社員対応はいつか解決し、未払い残業代の請求も弁護士を通じてやり取りできる分、まだストレスは少ないといいます。
これに対し労働組合対応は、弁護士のサポートを受けても丸投げできず、団体交渉には会社側の人が出なければなりません。変な回答をすれば「不誠実交渉だ」と指摘され、「基礎も知らないのか」と言われることもあると語ります。
さらに、交渉はお互いに録音・記録されており、口を滑らせて暴言を吐けば次の交渉でマイナスになります。団体交渉は夜19時頃から始まり、2時間ほど続くことも多いといいます。
そのうえで吉田さんは、経営者として意識すべきことを語ります。団体交渉は認められた重要な権利である一方、そこに駆け込まないと解決できない状況を作らないことが大切だという結論です。
産業医と社労士、それぞれの立場から
2回にわたるゲスト回を振り返り、小橋さんは、企業の健康管理は労務の基盤の上に成り立っており、産業医と社労士の連携は欠かせないと感じたと語ります。
吉田さんも同意し、会社にとっても働く人にとっても正しい選択をするには、医学的な知見の立場と労務的な立場が、時に協議しながら決めていくことが重要だと述べます。
最後に吉田さんは、普段配信している別番組を紹介します。
(普段は)社労士吉田優一の10分で労務がわかるラジオっていうのをやってるんで、もしよかったら聴いてください。
小橋さんは、2回では足りなかったとして、より深いテーマでまた収録したいと語ります。吉田さんも、専門家が聞いても聞き応えのある深い会話を連続回でやりたいと応じ、2回にわたるゲスト回は締めくくられました。
まとめ
この回では、労務基盤をゼロから作る経営者に向けて、法律・就業規則・雇用契約・労使協定・労働協約の関係と実務の注意点が整理されました。核心は、有利なものが優先されるという原則と、守れる約束だけを制度にするという姿勢です。
- 法律・就業規則・雇用契約書は、労働者にとって一番有利なものが適用され、本人の合意より優先される
- 就業規則は契約の側面を持つため、退職金など「守れない約束」を書くと後で支払い義務や不利益変更の問題を招く
- 雇用契約で必ず押さえるべきは「時間とお金」で、所定労働日・始業終業時刻・給与額・固定残業手当の内容を明記する
- 残業や賃金控除などは、労使協定を結ぶことで初めて適法になり、法改正に合わせた定期点検も必要になる
- 労働協約は就業規則や雇用契約を下回っても優先され、労働組合対応はどの企業でも起こりうるため、そこに駆け込まれない会社づくりが重要


