キャリアを語り続けた1年と、ポッドキャストという発信の場
キャリアヒストリーの語りも、この回で最終回を迎えます。小橋さんは7〜8回にわたって自分の歩みを配信してきたことを振り返り、続けて聞いてくれたリスナーへの感謝を口にします。
この配信を通じて一つ良かったこととして、小橋さんは第55回で触れた産業医科大学の企業実習の話を挙げます。今年の実習時期にあたる12月頭、東京に来ていた学生や卒業生の産業医と懇親する場があったといいます。
後輩がやって来て進路の話になると、つい自分の経験を語りたくなる。一方で学生からすれば、少しは聞きたくても延々と続けば負担になる。小橋さんは、そんな場面でポッドキャストが役立つと気づいたと話します。
最低限こっちが喋ったらですね、あとはもう自分の話はポッドキャストの方で喋ってるので、もし興味があればみたいな、そんな感じでスマートに言えるじゃないですか。
聞きたい人は聞き、聞きたくない人は聞かなくてよい。だからお互い平和だ、という理屈です。求められていなくても自分の話を聞いてもらいたい人にはポッドキャストがおすすめ、と小橋さんは締めくくります。
専属のように働きながら、嘱託産業医も10社に広がるまで
本編は前回の続きから始まります。2015年に東京へ引っ越してきた小橋さんは、ゼネコン企業の統括産業医として年度計画づくりや規定作成などを数年かけて積み重ねてきました。
一方で当時、そのゼネコン企業とは別に嘱託産業医の活動も結構やっていた、と小橋さんは明かします。そこには法令上のからくりがありました。
そのゼネコン企業は関東圏だけでも従業員が多数いましたが、社員の多くは建設現場で働いていました。本社という事業場単位で見ると人数が要件に届かず、専属産業医の要件を満たさなかったのです。
実質的には専属産業医とやってること変わらないんですけど、一方で法令上は非専属でしたから。
そのため小橋さんは、ゼネコン企業とは週3〜4の契約を結び、残りの日は堂々と他の会社で嘱託産業医をやっていた、という環境だったといいます。
東京に来て間もない頃、嘱託のご縁はほぼありませんでした。それが、人との出会いや発信活動などが重なり、紹介やご縁で少しずつ増えていきます。当時は営業やマーケティングとは意識していなかったといいます。
結果的に、2019年に会社を設立する頃には、合計10社ぐらいの企業とお付き合いさせていただいている状態になっていました。
源泉徴収の煩雑さと、「経営を知らない」という引っかかり
では、なぜ2019年に会社を設立したのか。小橋さんは、いろんな理由が重なったのが正直なところ、と前置きします。
超現実的なところから言うと、源泉徴収や確定申告といった手続きがめんどくさくなってきたことが一つの理由でした。法人としてまとめた方が分かりやすい、という身も蓋もない事情です。
ただ、それ以外の正当な理由もちゃんとあった、と小橋さんは続けます。その一つが、企業社会への理解でした。
この頃、小橋さんは産業医として5年以上を専業でやってきていました。健康経営の波も来ていて、それをリードする機会も増えていました。ところが、肝心の経営そのものを知らない、という引っかかりがあったのです。
その肝心の経営っていうのを知らないわけですよ。つまり、会社っていうのは結局何が本質なのか、その当時は分かっているようで、やっぱりまだよく分かってなかったんですよね。
会社の本質が分からないままでは、産業医としてこれ以上のレベルアップはできないのではないか。だったら自分で会社を立ち上げ、経営という立場に立てば、また違う景色が見えるのではないか。そう考えたといいます。
就業規則も両立支援も、自分で設計するから見える景色
企業への理解という意味で、小橋さんが特に挙げるのが働き方の部分です。就業規則や両立支援を自分で設計できるようになる、という点でした。
自分で制度を設計することで、産業医として担当している企業への解像度も上がる。そうすればより深みのある産業医活動もできるのではないか、というのが小橋さんの読みでした。
これは机上の話ではありませんでした。当時、小橋さん自身も子どもが増えてきて、両立支援の本格的な当事者になってきたことが大きい、と振り返ります。
さらに、5〜6年産業医をやってきた中で、企業における経済格差、健康格差を如実に感じてきたことも背景にありました。なぜ自分が産業医になったのかを、改めて考え直したのです。
自分の場合はキラキラした健康経営をやっている、そういう先進的な大企業っていうよりは、やっぱり中小零細、地方スタートアップ、そういう産業保健の手が届きにくいところ、そういった企業により力を入れていきたいなと。
どちらが良い悪いという話ではない、と小橋さんは断ります。その上で自分は、産業保健の手が届きにくい企業に力を入れたい。こうした理由が積み重なり、2019年11月1日に株式会社oneself.を設立しました。
oneself.という社名にたどり着くまでに外した候補
社名を「oneself.」とした理由についても、小橋さんは丁寧に語ります。まず、検討から外していった候補があります。
オーソドックスな候補としては、コバシ産業医事務所のように自分の名前を入れる案がありました。しかし、いつかはチームでやっていきたいと考えていたため、これは当初から外していたといいます。
チームメンバーからしてみたらですね、私以外私じゃないのというか、私以外コバシじゃないの?みたいになりますから。
次に外したのが、産業保健の英語Occupational Healthの頭文字を取ったOH系や、産業保健を略したサンポ系、ヘルス、メディカルといった単語です。同業ですでに結構出尽くされている感があったため、候補から外しました。
「結局、健康とは何か」という問いから社名を考える
候補を外した末に小橋さんが向き合ったのが、結局、健康って何なのか、という根本的な問いでした。
健康にはフィジカル、メンタル、ソーシャルの3つの側面から見たWHOの有名な定義があります。ただ、その上で人によって健康の捉え方は様々だ、と小橋さんは指摘します。
どういう状態が自分にとって、あるいは社会にとっての健康なのか。この定義を会社として定めておかないと、そこから先の企業活動が全てブレてくる。そう考えたといいます。
その問いを考えるとき、小橋さんの頭にあったのは、臨床医や産業医として関わってきたたくさんの人生、病気、そして死でした。当たり前だが、最後はみんな死ぬ。だからこそ、どう生きるのかが問われる、と語ります。
最期に立ち会って感じた、いい人生を分けるもの
職業柄、いろんな方の最期に立ち会ってきた小橋さん。その経験から、いい人生だったと最後に思えるかどうかを分けるものについて、一つの感覚を持っていました。
世間一般でいうところの成功とか社会的地位、そういうことよりも、自分の物差しとか自分の価値観、そういったもので生きてきたのかどうか。
そして周りの人たちに愛されてきたのかどうか。そういうことがいい人生だったなって最後に思えるかどうかに大きく影響してくるんじゃないか。
明るく楽しく元気よく生きられれば、それに越したことはない。一方で、辛いことや思い通りにいかないこと、自分の意思だけではどうしようもできないことも、生きていれば誰しもたくさんある、と小橋さんは言います。
それでも自分自身の人生を最後まで生きられるかどうか。それが健康を考える上での一つの大事なポイントになるのではないか。小橋さんはそう考えました。
個人だけでなく「環境」に事業としてアプローチする理由
一人ひとりが自分の人生を主体的に生きられたら、互いの違いを認め、尊重し合い、いざという時には自然と助け合える。それが健康な社会ではないか、と小橋さんは考えます。
ただし、一人ひとりの健康は主体性だけで決まるものではない、とも小橋さんは補います。実際には家庭や職場、地域、医療、教育といった、その人を取り巻く環境の影響が非常に大きいからです。
だからこそ、個人だけでなく環境に対しても事業としてアプローチしていくべきだ、と小橋さんは述べます。特に多くの人が人生の大半を過ごす、働く環境です。
我々医療職っていうのは患者さんの命を支える大事な仕事だと思いますけれども。一方で、じゃあ治療するための薬は誰が作ったのか。手術をするための道具は誰が作ったのか。
病院一つ取っても、薬も道具も、そして病院そのものも、誰かの仕事でできている。小橋さんは「世界は誰かの仕事でできている」という詩にも触れ、社会全体が働く人たちに支えられていると語ります。
だから、働く人の健康が害されると、本人だけでなく、その子どもや親といった周囲の人たちにも影響が及ぶ。だからこそ、ここにアプローチしていくことが大事だ、というのが小橋さんの立場です。
自分を生き、互いを認め、自ら助け合う——社名の由来
以上を踏まえて、oneself.は働く人の健康を守る産業保健活動を通じて、自分たちが目指す最終的な健康を実現しようとしています。
その最終的な健康を、小橋さんは自分を生き、互いを認め、自ら助け合うという言葉で表します。そうした選択肢を持てる人が一人でも多く増えればいい、という願いです。
その起点となるのが、自分の人生を最後まで生きるという一点でした。ここから、ピリオド付きの「oneself.」という社名になった、と小橋さんは明かします。
候補を外す
自分の名前を入れる案や、産業保健の定番の英単語を使う案を外した
問いに戻る
結局、健康とは何かという根本的な問いに向き合った
最期からの視点
自分の価値観で生き、周りに愛されたかがいい人生を分けると考えた
社名の起点
自分の人生を最後まで生きるという一点から、oneself.と名付けた
40歳・5人目の誕生と、これから40年でやりたいこと
キャリアヒストリーを振り返り、小橋さんは、後にも先にもこんなに自分のキャリアを話す機会はないだろう、いい棚卸しになった、と感謝を述べます。この回は2025年12月31日、大晦日の配信でした。
今年は元日から配信していたため、産業医の本音に始まり、産業医の本音に終わる1年になった、と小橋さんは笑います。1年を通じて聞いてくれた人にはきっと何かご利益があると信じている、とも。
個人的な話として、小橋さんは今年、おそらく最後となる5人目の子どもが生まれ、自身も40歳になったことを明かします。そして、ここで初めて人生の目標ができたといいます。
それはこの子が40歳になったのを見届けてから死のうと。つまり80歳まで生きるっていう、別にそんな宣言するようなことでもないんですけれども。
今年は戦後80年。40年間平和に生きてこられたのはある意味奇跡だ、と小橋さんは言います。産業保健は戦争や貧困の前ではほぼ無力かもしれない。それでも次世代がより良い社会を迎えられるように、と続けます。
ここから先40年は自分なりにできることを考えやっていきたいなと、そんなことを感じた2025年でした。
まずは2026年。引き続き産業医の本音を更新していくとして、小橋さんはリスナーへの感謝と新年の挨拶で締めくくりました。
まとめ
産業医として複数企業に関わってきた小橋さんが、経営を知るために自ら会社を設立し、社名oneself.に「自分の人生を最後まで生きる」という健康観を込めるまでの過程を語った最終回です。
- 2015年以降、ゼローン企業の統括産業医として働きつつ嘱託産業医も担い、2019年には合計10社ほどと付き合う状態になっていた
- 源泉徴収などの実務的な理由に加え、経営を知らないままでは産業医として深まらないという思いから、2019年11月に株式会社oneself.を設立した
- 自分の名前や産業保健の定番の英単語を社名候補から外し、「結局、健康とは何か」という問いに立ち返った
- 最期に立ち会ってきた経験から、自分の価値観で生き、周りに愛されたかがいい人生を分けると考え、自分の人生を最後まで生きることを社名の起点にした
- 個人だけでなく働く環境にも事業としてアプローチし、自分を生き、互いを認め、自ら助け合う人を増やすことを目指している




