駆け出し時代の「相場観」はどう身につけたのか
この回は前回に続くキャリアヒストリーの回で、小橋さんが産業医として駆け出しだった頃の話から始まります。産業医科大学の出身とはいえ、当時は産業医の経験も知識もほとんどなかったと振り返ります。
小橋さんは、産業医面談の進め方も、職場巡視で何を見るかも、衛生委員会で何を話すかもわからない状態だったと語ります。医療ではなく企業がベースのフィールドになるため、ビジネスの現場での相場観が全くわからなかったといいます。
相場観は場数と勉強だけでは身につかないため、小橋さんは「人・本・旅」を意識したと話します。業界内外を問わずいろいろな人と話し、本を読み、さまざまなコミュニティに足を運んで少しずつ醸成していくしかなかったといいます。
これは岩田さんのワーケーションの回でもやった、人、本、旅ですよね。
当時のメールを見返すと本当に酷い内容だったといい、指導してくれた人たちへの感謝を口にします。今は伝える立場になったとしつつ、相場観は時代や空間とともに変わり得るものだと述べます。
初心忘るべからずということで、なるべくこの頃の気持ちを持ち続けながら、これからも謙虚に学び続けていきたいところですね。
一人産業医か、上級医と一緒か。キャリアの分かれ道
本編では統括産業医の経験がテーマになります。産業医科大学の修練は約2年で終わり、そこから一人立ちとして次のキャリアを考えていく段階に入ります。
小橋さんによれば、産業医科大学の卒業生が各企業や労働衛生機関で活躍しているため、新しい産業医が欲しい、後任を探してほしいといった声が大学に届くといいます。約2年修練を積めば、受け身であっても次のキャリアがそれなりの割合で保証されている環境だと説明します。
小橋さんも修練医2年目の夏頃、当時のボスである森浩一先生から候補を出してもらい、選択肢を絞っていきました。まず働く場所は関東を希望し、当時福岡で暮らしていた妻もOKだったといいます。
人生1回ぐらいは東京行きてえなみたいな。
次の分かれ道は、数千人から数万人規模で常勤産業医が複数いる環境で上級医と働くか、1000人から2000人規模の企業で一人産業医として責任と裁量を持ってやるか、でした。小橋さんは後者を選びます。
小橋さんは、産業医科大学で約2年間の恵まれた修練を受けた人たちは、むしろバラけていったほうが世の中のためになるのではないかと考えていたと話します。
横須賀の造船か、東京のゼネコンか
絞り込んでいった結果、最終候補になったのは横須賀の造船企業と、東京のど真ん中にあるゼネコン企業の2社でした。小橋さんはどちらも事業内容として好きだったといいます。
産業保健の側面でも、造船業と建設業は特定元請事業所や重層下請け構造といった特徴的な業界だと説明します。
最終的に造船側も良かったものの、行きたいという同級生がいたため譲る形になったといいます。一方でゼネコン側は、当時の担当だった6〜7歳ほど上の非常に仕事のできる先生が引き継ぎ先を探していた状況でした。
その先生は、東京の本社でゼロから健康管理体制を立ち上げ、全国の支店を含めた全社的な体制づくりへと進める雰囲気を作ったところで次の企業へ転職するタイミングでした。見学の際に、後を任される流れになったと振り返ります。
見学に行った際に、じゃあ小林くん、あとよろしくみたいな、そんな感じだったんですよね。
統括産業医という役割と、選んだ理由
一支店や一事業場ではなく、企業やグループ全体の産業保健活動をリードする産業医を、一般的に統括産業医と呼びます。小橋さんはこのゼネコン企業で、その経験をさせてもらえる立場になりました。
優秀な先生の後を引き継ぐのは大きなプレッシャーだったといいます。一方で、これから全社的な体制を整えるフェーズで自由と責任を持って進められることが、当時の自分には魅力的に映ったと語ります。
さらに小橋さんは、建設業では土木や建築、ダムやトンネル、ホテル、当時は東京オリンピック関係の施設など、いろいろな建設現場へ巡視に行けることに純粋にワクワクしたといいます。こうした経緯で、約2年間の修練を終えた後、2015年に東京へ引っ越して統括産業医としての生活が始まりました。
本社にどっぷり浸かって知った「常勤産業医の感覚」
当時の会社は、従業員規模が全国で1500〜2000人ほどの、業界では準大手から中堅と言われるゼネコン企業でした。平均年齢は40代中盤、勤続年数は20年ほどで、新卒から定年までずっといるという人も多い業界だといいます。
健康管理室は本社の人事部に紐付いており、統括産業医という役割は得たものの、一つの企業にどっぷり浸かる経験自体が初めてだったと小橋さんは話します。最初は新入社員研修を一緒に受けるなど、新鮮な経験をしたといいます。
関東圏の産業医も兼任していたため、正直、最初の半年間はそちらに全振りしていたと振り返ります。建設現場の巡視は月2〜3回行き、安全大会や決起大会など業界に多いイベントにも顔を出して、現場と業界を知ることに努めました。
専門職ではあるんだけど、業界の一員であり、会社の一員であり、これが常勤産業医の感覚なんだなっていうのを、産業医3年目にして初めて知りましたね。
産業医面談も衛生委員会も、より深いところまで会社や社員に関われるのが常勤産業医の醍醐味だと当時感じていたと小橋さんは語ります。
全国行脚で見えた、本社と地方支店の大きなギャップ
統括産業医としての仕事を本格的に始めたのは、関東圏の産業医業務に慣れた1年目の冬頃でした。各主要都市に支店があり、1〜2ヶ月かけて7〜8拠点を回る全国行脚を初めて行いました。
各支店では、支店長や管理部長、人事労務担当、支店によっては嘱託産業医の訪問スケジュールに合わせて挨拶に回りました。今どんな状況かを尋ねながら対話を重ねていったといいます。
すると、常勤の産業保健専門職がいる関東圏と違い、地方支店では人事労務の担当者が多くの仕事を抱える中での健康管理業務のため、なかなか手が回っていない実態が見えてきました。
産業医の訪問も基本は月1回で、中には名ばかりで何年も会社に来ていない先生もいたといいます。小橋さんは、関東圏とそれ以外の活動に大きなギャップがあることに改めて気づきました。
給食職者の管理ができてないとか、受動喫煙の対策ができてないとか、本当に色々あったんですけど。
時間もリソースも有限なため、やること、やらないこと、縮小することを関係者に説明しながら優先順位をつけて進めるのが統括マネジメント業務だと小橋さんは説明します。
3年間ずっと陽性だった検査結果。放置が招いた事例
全国行脚で一番覚えているのが、とある支店での出来事だと小橋さんは語ります。担当者から、ある社員が最近大腸がんが見つかり、今はステージ4でかなり厳しい状態だという話を聞きました。
小橋さんがその社員の健康診断結果を見せてもらうと、大腸がんの指標でもある便潜血が過去3年ずっと陽性だったことがわかりました。
さらに、その支店の産業医が検診結果をチェックした形跡も全くなかったといいます。小橋さんは、これが本当に衝撃だったと振り返ります。
これもし3年前の段階で産業医の判定に基づいて一回でも受診勧奨してたら、もしかしたら今こんな風になってなかったんじゃないの?
同様の事例は他にもありました。朝現場に出てこないので詰所に様子を見に行ったら亡くなっていた社員の検診結果が血圧180の110を超えていた例や、現場で意識を失って倒れた方の血糖コントロールがめちゃくちゃだったことが後にわかった例などです。
こうした健康診断後のフォローアップが、特に地方支店では当時ほとんどできていなかったと小橋さんは指摘します。これは何とかしないといけないと強く感じたといいます。
正論だけでは動かない。まず「フォローの型」を作る
小橋さんは、労働環境の問題が健康状態を作っている側面も認めます。長時間労働や休日出勤を減らすといった根本的な対策が最も大事なのは言うまでもないと述べます。
一方で、それは会社や現場単位だけの話ではなく、業界全体の構造的な問題も大きく絡むため、産業医が正論を言ってもすぐに解決する問題ではないと小橋さんは考えました。
そこで小橋さんは、まずできることとして健康診断後のフォローの流れを型として整えることに取り組みます。各支店で最低限やるべきことを段階的に定めていきました。
小橋さんは、こうした流れを続ければ、健康診断の結果を放置したことによる不幸な事例はかなり減っていくと考えたといいます。1年、2年、3年ほどかかるかもしれないという時間軸で捉えていました。
各地方支店のボトムアップを最優先課題として、健康管理に関する全社的な方針、基準、計画、運用を推し進めていったのが、小橋さんの統括産業医としての最初のスタートでした。
この経験が、今の産業医活動にどうつながっているか
今回はキャリアヒストリーの一環として、統括産業医のさわりの部分が語られました。小橋さんは、過去回で紹介した内容の多くがこの経験に根ざしていると振り返ります。
具体的には、第24回・第25回で紹介した休職規定や試出勤制度、第51回・第52回で紹介した衛生委員会の年度計画や評価指標に、統括産業医として中心的に関わった経験が生きているといいます。
また、第48回で紹介したオペレーションエクセレンスやルールマスター、ストラテジストといった内容を自信を持って行えるようになったのも、この常勤での経験が大きかったと話します。
建設業、特に元請けは、会社としての取り組みと現場としての取り組みの両方が求められます。今回の会社としての統括マネジメントだけでなく、協力会社の作業員の健康を含む元請けとしての統括マネジメントについては、またどこかで取り上げたいと締めくくりました。
まとめ
この回は、駆け出しの産業医だった小橋さんが統括産業医となり、本社と地方支店のギャップに向き合っていく過程を振り返る内容でした。正論だけでなく、まずできるフォローの型を作るという姿勢が印象的に語られています。
- 相場観は場数だけでは身につかず、「人・本・旅」で少しずつ醸成するしかなかったと振り返っている
- 小橋さんは一人産業医として責任と裁量を持つ道を選び、2015年に東京のゼネコン企業で統括産業医となった
- 本社にどっぷり浸かる中で、業界の一員であり会社の一員でもある「常勤産業医の感覚」を初めて知った
- 全国行脚で、便潜血が3年間陽性のまま放置されるなど、地方支店の健康診断フォローの不備が明らかになった
- 根本的な労働環境改善は時間がかかるため、まず健診後のフォローの流れを型にして全社で共有する取り組みから始めた




