沖縄行きが決まった、ドラスティックな1ヶ月
今回のエピソードで小橋さんが振り返るのは、産業医科大学を卒業して臨床医を3年やった後、大学に戻って産業医系の局に入るという道の途中、その3年目にあたる時期です。
小橋さんは2年間、福岡の民間救急病院で救急診療をやってきました。3年目をどうするか考えたとき、今の病院も好きでしたが、違う環境で自分が外で通用するのか試したかったといいます。
そこで福岡の別の有名な救急病院をいくつかあたってみたものの、産業医科大学の宿命ともいえる反応が返ってきたと話します。
どうせ1年経ったら産業医科大学に帰るんでしょ?みたいな。それは採用する側からしたら、それが正論とは思うんですけれども。
採用する側の立場としては正論だとしつつも、そんな塩対応が続くうちに研修医2年目の1月、2月になり、このまま今の病院に残ろうかと思い始めていたそうです。
そこで登場するのが、第55回でも紹介された大学同級生の五十嵐さんでした。五十嵐さんも小橋さんと全く同じ進路を選んでおり、境遇は同じだったといいます。
当時、五十嵐さんは全国規模で救急医療や地域医療を展開する病院グループの北海道の病院で研修していました。今度は同じグループの沖縄で3年目をやるという話でした。
じゃあ小橋も行けるんじゃない?来る?みたいな。そんな話になって。私も、あ、沖縄いいかもってなって。
話を聞くと、1年だけでもOKどころか即戦力として来てほしいと言われていたそうです。2月の中旬にそう話が動き出し、すぐに病院見学へ。先方からもぜひ来てほしいと言われ、近くのマンションを押さえて、3月には沖縄行きが決まったといいます。
1年だけでもウェルカムですと温かく迎え入れてくれた院長やスタッフの皆さんには、心から感謝していると小橋さんは話しています。
救急車は絶対に断らない病院と、沖縄ならではの救急
小橋さんが勤めていたのは沖縄の南部でした。那覇市の中心街まで車で20分ほどの、観光地ではない、ありのままの沖縄の人たちが住む環境だったといいます。
そこで小橋さんは救急や総合診療を中心に、何でも屋のように1年間働きました。まずは救急です。
この病院グループは、救急車は絶対に断らないというポリシーを持っていました。救急車もウォークインも次々にやってきますが、台数は年間3000台ほど。福岡で鍛えられたおかげで、そこまで多いとは感じなかったといいます。
これだと十分通用するなっていうようなことを実感できました。
自分ですべてやるというより、研修医の先生たちに教える先輩的な役割も担っていたそうです。そのなかで、これは沖縄だと感じた場面もありました。
たとえばハブに噛まれる患者はしょっちゅうで、なかには噛まれたハブを殺して「これがそのハブさ」と一緒に持ってくるおじいもいたといいます。
救急では、福岡時代にはできなかった経験もたくさんしました。ドクターカーで事故現場に駆けつけたり、ドクターヘリで患者を受け入れたりといったことです。
特にドクターヘリについて、沖縄は南北400キロ、東西1000キロにわたって40弱の人が住む離島があるため、救急医療に欠かせない存在だと小橋さんは説明します。
自衛隊機で大東島へ。夜明け前に見た空と海
小橋さんは、天候が悪いときや夜間はヘリが出せないため、そうした場合には自衛隊による救急搬送が行われていると話します。
小橋さん自身も、夜間の当直で一度だけ自衛隊機に乗ったといいます。沖縄本島から東に350キロ、人口2000人ほどの大東島から搬送要請があったときのことでした。
まず病院から自衛隊基地まで車で向かい、那覇空港に隣接する基地の専用入口から入って、そのまま航空機に搭乗します。1時間から1時間半ほどかけて大東島に向かったそうです。
大東島に着くと、近くに患者がストレッチャーで待っていました。簡単な引き継ぎを受けて患者を乗せ、そのまま沖縄本島へ帰ります。大東島の滞在時間は、全部で5分ほどだったといいます。
幸い患者は命に別状のある状態ではなかったため、帰りは比較的落ち着いた気持ちで乗っていたそうです。本島に着く頃には夜明け前でした。
窓から見た空と海の景色っていうのはすごい綺麗だったのを今でも覚えています。
沖縄で一番大きかった「主治医をやったこと」
救急も貴重な経験でしたが、小橋さんが沖縄で一番大きかったと語るのは、主治医をやったことでした。外来、病棟、訪問診療、離島診療のすべてが貴重だったといいます。
小橋さんは、初期研修時代はとにかく患者を次の朝まで、病棟に上げるまでが大きな仕事だったと振り返ります。
本来主治医に求められるのはそこから先ですよね。自分の責任で外来患者さんや入院患者さんを最後まで診ていかないといけない。
これをやりたくて3年目は臨床をやると決めた、逆にこれをやらないと臨床医になるのか産業医になるのか、自分の中で踏ん切りがつかないと当時は思っていた、と小橋さんは話します。
結局1年間で外来は数千人、入院は数百人を受け持ったといいます。研修医時代とは違う苦労もありましたが、主治医をやったからこそ得られたものがたくさんあったそうです。
健診結果を持ってくる患者と、産業保健への気づき
外来では、こんな場面もあったと小橋さんは話します。救急を診て、病棟を診て、その上で1日数十人の外来患者を診ているときのことです。
そこへ、治療するレベルではない健康診断の結果を、それなりの大きな会社の人が「会社から行けと言われた」という感じで持ってくることがあったといいます。
さすがに、産業医何やってんだみたいな話になるんですよ。
病院でやることもないのに来れば、時間もお金も無駄になります。しかもそうした体験が、本人の会社不信や病院不信にもつながってしまうと小橋さんは指摘します。
健診の事後措置のところは、当時から課題だなと感じることができた、と小橋さんは振り返ります。産業保健の視点につながる気づきでした。
命が助かることと、社会復帰ができることは別
思い入れが深いのは病棟だと小橋さんは話します。1日で退院する人からICUでがっつり管理する人まで、幅広く主治医を務めました。
特に重度の救急で来る患者について、入院前に100の状態だったとして、100の状態で退院できることは現実的にあまりない、と小橋さんは語ります。
それでも一生懸命治療していきますが、患者や家族から受ける質問は、病気のことより「また働けるのか」「この趣味は続けていいのか」といった、仕事や生活に関するものが大半だったといいます。
何より忘れられないのは、目の前で亡くなっていった患者たちだと小橋さんは話します。人の命に重いも軽いもないとしたうえで、現役で働く世代が不意に亡くなる場面には、何とも言えない雰囲気があったといいます。
特にその人が一家の大黒柱で小さな子どもがいる場合や、中小零細企業の社長でその人がいないと会社をどうしていいかわからない場合、周りへの影響もダメージも大きかったと振り返ります。
病院の中でできることには限りがある
当時の最善は尽くしたという自負を持ちつつも、あの時点でこの治療を開始しておけばよかったのではないか、逆にこの治療はやらない方がよかったのではないか、と今でもたまに考えると小橋さんは話します。
主治医として1年で何十人もの患者を看取ってきたなかで、特に脳裏に焼き付いているのは、本当はもっと働けたかもしれないのに、それが叶わなかった人たちだといいます。
そうした人たちの中には、もう少し早く病院に来ていれば結果が変わっていたかもしれないケースも少なからずあったそうです。
そういう経験が重なるなかで、そもそも病院の中でできることには限りがある、と小橋さんは考えるようになります。
防ぐことができたかもしれない病にアプローチするには、一度産業医になって病院の外へ出る必要があるのではないか。そう1年を通じてだんだんと思うようになったと小橋さんは語ります。
観光とは解像度が違う、人生に欠かせない1年
キャリアを軸に話してきたため沖縄での生活には触れられなかったものの、沖縄での1年は人生になくてはならない1年になった、とどこかで一回分取ってもいいくらいだと小橋さんは話します。
歴史や産業も含めて、観光でちょっと遊びに行くのとは解像度が全然違うといいます。
妻とも沖縄で出会っており、子育てが落ち着いたらまた沖縄に住みたいと話しているそうです。いずれどこかで沖縄の話をまたできればと締めくくっています。
まとめ
産業医科大学卒業後の3年目に選んだ沖縄での臨床医生活は、救急から主治医、離島搬送まで幅広い経験の場でした。そのなかで小橋さんは、命が助かることと社会復帰ができることの違いや、病院の中でできることの限界に触れ、産業医として病院の外へ出る決意を固めていきます。
- 3年目に外の環境で自分を試したいと考え、同級生の縁で急遽沖縄行きが決まった
- 救急車を断らない病院で年間3000台の救急に対応し、ドクターヘリや自衛隊機による離島搬送も経験した
- 外来・病棟・訪問・離島診療で主治医を務め、健診結果の持ち込みから産業保健の課題にも気づいた
- 命が助かることと社会復帰は別であり、患者の関心は仕事や生活に向いていた
- 防げたかもしれない病にアプローチするため、病院の外へ、産業医の道へと進む決意が固まっていった




