沖縄をもう1年延ばしたかった臨床医が大学に戻るまで
前回のエピソードでは、2012年の沖縄での臨床医経験が取り上げられました。今回はその続きにあたる、産業医科大学での修練医時代の話です。
小橋さんは、自身が産業医を志したきっかけには2段階あったと振り返ります。1段階目は高校生の時の漠然とした思い、2段階目が沖縄での経験だったといいます。
ただ、沖縄から戻る当時は、すぐに産業医をやりたい気持ちではなかったそうです。本当はもう1年、当時の病院に残りたかったと話されています。
本当はですね、もう1年ぐらい当時の病院にいたかったんですよ。主治医としてもう一段レベルアップしたい気持ちもありましたし、せっかく沖縄に来たんだからもう1年ぐらいいたいじゃないですか。
しかし産業医大の方針で延長は認められず、小橋さんは1年で沖縄を引き揚げます。こうして実に3年ぶりに、2013年4月から産業医科大学に戻ることになりました。
同級生の多くは研修医などを経て、3年目や4年目に大学へ戻ってきます。そのため同窓会のような雰囲気になるのが産業医大あるあるだと語られています。
産業医大にしかない2つの施設とは
今回の話の舞台となる産業医科大学は、優れた産業医と産業保健専門職の養成、産業医学の振興を目的に、1978年に福岡県北九州市に設立されました。
大学には産業医学・産業保健に関連したさまざまな施設があります。中でも卒後修練に大きく関わるのが、産業生態科学研究所と産業医実務研修センターの2つだと小橋さんは挙げます。
1つ目の産業生態科学研究所は、産業医学を専門的に研究・教育することを目的として、1986年に設置された施設です。今は12〜13ほどの多様な教室があるといいます。
2つ目が産業医実務研修センターです。産業医学の実践者を育てる目的で、1991年に設置された、産業医実務のトレーニング施設だと説明されています。
産業医実務研修センターは学内関係者だけでなく、学外向けの事業も多く手掛けています。有名どころが、産業医の50単位を一気に取得できる産業医学基礎研修会、通称・夏季集中講座だといいます。
森耕治先生のもとで始まった産業医人生
小橋さんが修練医として所属したのが、この産業医実務研修センターでした。その理由には、当時センター長を務めていた森耕治先生の存在があったと語られています。
森先生は当時、産業生態科学研究所の中に産業保健経営学という教室を、センターとは別に立ち上げる形で並行して教授を務めていました。
そのため小橋さんは、所属こそ産業医実務研修センターでしたが、感覚的には産業保健経営学の教室にもいるような環境だったと振り返ります。
こうして始まった小橋さんの産業医人生は、大きく実務・研究・教育の3つに分けて振り返ることができるといいます。
実務
割り振られた約20の現場で産業医を担当
研究
上級医のもとで産業医実務に紐づく研究に従事
教育
講義や研修を通じて体系的に学ぶ
割り振られた約20の現場で経験した実務
まず実務については、自分で営業する必要はなく、教室がすでに抱えている産業医先を修練医の中で割り振っていくスタイルだったといいます。
特に自分で営業してくるといったことはなくて、すでに教室の方で抱えている産業医先があって、それを修練医の中で割り振っていくというようなスタイルでした。
小橋さんの場合は、製造・物流・大学・自治体など、合計20ほどの現場を1年を通じて担当したそうです。
中には労働衛生機関で月1回、健診医として健康診断を手伝いつつ、その機関が契約している産業医業務を提供するといった経験もしたと語られています。
特殊健診で「作業条件の調査」がなぜ重要なのか
次に研究です。実務研修センターでは、健診の就業判定を産業医が適切に行う方法や、衛生委員会で産業医が活躍する方法など、産業医実務に紐づく研究がよく行われていたといいます。
小橋さんが一番メインで関わったのは、特殊健康診断における作業条件の簡易な調査の有効性を調べる研究でした。
たとえば特殊健診で貧血や肝機能の異常といった所見が出ても、それが有害物質によるものかどうかは結果だけでは分からない、と小橋さんは指摘します。
もしかしたら、もともと生理の出血量が多かったり、お酒の量が多かったり、そういう仕事以外の要因で悪くなっているという可能性の方が、今の日本だとメジャーだったりするんですよね。
とはいえ、有害物質による影響を見逃してはならない。そこで重要になるのが、どういう物質をどういう条件でどれくらい使っているのかを問診で聞く「作業条件の簡易な調査」だといいます。
その他にも、事故や災害時の産業医対応に関する研究のインタビューへの同行や、グローバル企業の安全衛生の仕組みづくりの研究にも関わったそうです。
これも実際に東南アジアの現地法人に出向いて、そこの専門家や担当者とディスカッションしていくみたいな。私はただ横に座っているだけなんですけれども、そういう研究にも関わらせていただきました。
産業医をやりながら学ぶ講義の吸収度
最後の3つ目が教育です。センターの研修事業を手伝う一方で、修練医として実際に講義や研修を通じて学ぶ機会を2年間持てたといいます。
学内外を問わず、大企業の社長や法学部の教授、教育研修設計のプロなど、普段まず出会わないような多種多様な講師の話を聞けたそうです。
小橋さんは、実際に産業医をやりながら講義を聞くため、学生時代とは興味も吸収度合いも全く違ったと振り返ります。
臨床医より苦しかった修練医時代の正直な本音
ここまでさらっと語られてきましたが、これらを何の問題もなくクリアできたわけではない、と小橋さんは打ち明けます。精神的には臨床医時代よりつらかったそうです。
まず世界がまるで違ったといいます。つい先日まで白衣とスクラブを着て、一分一秒の世界でその日暮らしのような生活をしていた反動が大きかったようです。
正直、自分で動けて自分でご飯食べれているんだったらそれでいいじゃんみたいな、そういう世界だったんですよ。それが流れている時間も求められるスキルも全くもって違うんですよね。
センターの先生たちはICUハンドブックではなく日経ビジネスを読み、会話もビジネスパーソンそのもの。臨床の先生たちとは全く異なる環境だったと語られています。
当時の小橋さんには、経営の知識はもちろん、名刺交換やスケジュール調整、パソコン操作といった社会人スキルもほぼゼロだったといいます。
そこでまずはスーツやバッグ、名刺入れといったビジネスセットを揃え、外側から入っていったそうです。つい先週まで短パンと島ぞうりで沖縄をうろついていた自分からは信じられないことだと振り返ります。
遅刻を恐れて敷地を回った産業医デビューの日
同級生の中には、3年目に臨床ではなく専属産業医として1年経験してから大学に戻る人もいました。全くの産業医未経験だった小橋さんは、そうした同級生に気後れしていたといいます。
さらに最初に担当した企業は、上級医も保健師もおらず、産業医一人で対応する現場でした。大学に戻って1週間後、早速初回の産業医訪問が入ります。
その訪問の日のことを、小橋さんは今でもよく覚えていると語ります。車で向かう間も、緊張でひたすらビビっていたそうです。
絶対に遅刻だけは避けないといけないってことで、そしたら今度は1時間ぐらい前に現地に着いちゃって。やばい、あと40分、あと30分みたいな。何喋ろうと敷地の周りをぐるぐる回ってたんですけど。
そうこうするうちに、今度は2分前になって遅刻を恐れる事態に。構内を走ってはいけないという教えを守り、競歩のように入り口へ駆け込んだのが記念すべき産業医デビューだったといいます。
苦しさの2年間が産業医の土台になった理由
本編で触れた以外にも、海外での学会発表など貴重な機会が多くあったといいます。それでもこの2年間は、楽しいより苦しいという感情の方が総じて大きかったのが正直なところだと小橋さんは語ります。
産業医が向いていないとまでは思わなかったものの、どれだけ勉強や経験を重ねても、心から満足してできたと思える感覚になれなかったそうです。
その理由を、業務の特性や臨床医からの喪失体験に加え、自分では到底敵わないような方たちに囲まれていたことにあったのではないかと振り返ります。
だからこそ今は、育ててくれた産業医科大学の皆さんには感謝しかないと、小橋さんは修練医時代の回想を締めくくりました。
まとめ
沖縄での臨床医から一転、産業医科大学の修練医となった小橋さんの2年間は、実務・研究・教育を体系的に学べる贅沢な時間であると同時に、臨床医時代より苦しい時間でもありました。その苦しさこそが産業医としての土台になったと振り返る回です。
- 産業医を志したきっかけは高校生の時と沖縄での経験の2段階だった
- 卒後修練は産業生態科学研究所と産業医実務研修センターが大きく関わる
- 修練医時代は実務・研究・教育の3本柱で構成されていた
- 名刺交換やパソコン操作など社会人スキルはほぼゼロからのスタートだった
- 苦しかった2年間が産業医としてのキャリアの土台になったと振り返る




