いま起きている酪農家の急減
配信の冒頭、川上さんは酪農をめぐる厳しい現状を共有しました。
SNSで投稿したところ、6月の酪農家件数は9千数百戸まで減り、8月には8千戸台になるのではないかと話します。
酪農が盛んな北海道でも、すでに3千戸ほどしかないそうです。
夏を明けると生産性が落ち、餌代も上がり、廃業を考える人が増えるのではないかと懸念していました。
地元の牛乳がなくなるみたいな、本当にあと数年でありうるのかなと思いながら。中小の乳業メーカーさんが持つのかっていうのがちょっと心配で。酪農家より、酪農業に関する産業がどうなっていくのかっていうのがやっぱり心配ですね。
それでも「やばいやばい言っててもどうしようもない」と、前を向いて続けていく姿勢を見せていました。
リスナーから届いた「命の判断」への問い
今回の質問は、メルマガに届いた長文のメッセージでした。匿名希望のため、個人がわかる情報は伏せて要約で紹介されています。
メッセージの送り主は、延命措置を希望しない意思を、判断できるうちに公正証書として残しているそうです。
親族の最期に立ち会う中で、本人の意思がわからないまま家族や医療者が判断を迫られる場面も経験してきたといいます。
また、長年一緒に暮らした高齢の猫を突然亡くした際には、救急で命をつなぐより、自宅で見送ることを選んだそうです。
以前、別の猫を約1ヶ月延命した経験が、その猫にも本人にもつらいものだったからでした。
その経験から、命を長く保つことと、その命にとって良い時間を守ることは、必ずしも同じではないと感じているといいます。
牛の治療や出荷、命に関わる判断を繰り返している川上さんも、割り切れないものを抱えながら、その時々の最善を選んでいるのではないでしょうか。
牛を「経済動物」として捉えるということ
川上さんは、全く何も感じないわけではないと前置きします。長く飼った牛や自分の牧場で生まれた牛、性格をよく知る牛、一頭一頭に記憶があると話します。
ただし、自分の立場をはっきりさせておきたいと言葉を選びました。
自分自身は牛を基本的に、ここは皆さん驚かれるかなと思いますけど、経済動物として考えています。愛玩動物とは考えてなくて、可愛いなとかそういうので飼っているわけではないということですね。ここは曖昧にせずにハッキリ言っておきたいと思います。
判断の基準は、その牛が人や社会にどれだけ貢献できるかだといいます。牛乳を生産し、子牛を産み、お肉になり、堆肥にもなります。
さらに地域の景観を維持したり、人に学びや体験を与えたり、牧場で働く人の生活を支えたりと、様々な形で価値を提供していると説明します。
ここで川上さんは、経済動物だからこそ雑に扱うのではない、と強調しました。
経済動物だからこそ健康に飼う必要があります。痛みを減らす必要があります。病気を予防し、適切な治療を行い、その牛が持つ能力を発揮できるようにする必要があります。不健康な牛からは持続的に価値を得ることはできません。
延命は牛のためか、人間のエゴか
一方で、治療を続ければ必ずいい、長く生かせば必ず優しい、とは思わないと川上さんは言います。
回復の見込みが低く、強い痛みが続き、自力で立てず食べられず、生産や繁殖に戻れる見込みがほとんどない。そういう牛に人の時間やお金、餌、薬を投入し続けることが本当に牛のためなのか、と問いかけます。
「もう少し治療すれば」「ここまで世話をしたのだから」という気持ちが出ることもあると認めます。
ただし、これは他の農家や飼い主に同じ考えを求めるものではなく、あくまで自分自身の判断基準だと繰り返しました。
牛群全体で考えるという視点
川上さんは、人間の延命と家畜の延命を全く同じ問題として考えることには注意が必要だと指摘します。
人間には自分の人生について意思を示す権利があり、望む医療や最期を言葉や書類に残すことができます。
しかし牛は「ここまでなら治療してほしい」と事前に意思表示できません。だから飼い主が判断しなければならないといいます。
その時に見るのは感情だけではないと、川上さんは具体的な項目を挙げます。
病気の状態
原因、回復の可能性、痛みの程度、立てるか、食べられるか
治療後の生活
どのような生活に戻れるか、再発の可能性
牛群への影響
周囲の牛への影響、他の牛の管理に与える影響
経営への影響
治療に必要な人手と費用
1頭につきっきりになると、残りの牛の餌やり、搾乳、分娩管理が遅れることがあります。
限られた資金を回復見込みの低い1頭の治療に使えば、牛舎全体の暑熱対策や子牛の疾病予防に回せなくなることもあります。
牧場では1頭だけを見て判断することはできません。1頭の命と牛群全体の生活がつながっているからです。
冷たい計算に聞こえるかもしれないと断りつつ、経営が続かなければ全ての牛を飼い続けることも、家族の生活も成り立たなくなると話します。
「良い時間」と「社会での役割」
治療するか、出荷するか、安楽死を含めて命を終わらせるか。判断のとき見るのは「まだ生きていけるか」ではなく「この先その牛にどんな時間が残るのか」だといいます。
再び立ち上がり、食べて、群れの中で生活し、生産に戻れる可能性があるなら治療する意味がある。すぐ戻れなくても回復の見込みがあり苦痛を減らせるなら治療を選ぶこともあると話します。
しかし治療を続けても強い苦痛が残り、回復の可能性が極めて低く、ただ時間を延ばすだけなら、それを命を大切にしているとは考えられないといいます。
川上さんは、リスナーの言葉に共感しつつ、もう一つ付け加えたいと語りました。
一緒に暮らすこと自体が価値になる。生産をしなくても存在そのものが家族の中で意味を持つ
良い時間かどうかに加えて、社会に対する役割を果たせる状態かが判断材料になる
家畜は人の食料や暮らしに役立つことを前提に、人間が繁殖させ使ってきた動物です。その前提を無視して、生きている限りどれだけ費用がかかっても飼い続けるべきだとすれば、家畜という仕組みそのものが成立しなくなると考えています。
ここで大切なのは、経済動物だから苦痛を無視していい、役に立たなくなったら雑に扱っていい、ということではないと念を押します。
むしろ逆で、人間の都合で生まれ、人間の管理下で生きているからこそ、人間には健康に飼う責任や苦痛を減らす責任、適切な時期に治療する責任、回復が難しい時に苦痛を長引かせない責任があります。生かす責任だけではなく、終わらせ方に責任を持つことも使用者の役割だと考えています。
迷いと、あらかじめ持つべき「判断基準」
もちろん毎回きれいに納得できるわけではないといいます。「あの時もう1日治療していたら」「もっと早く始めていたら」と考えることはあると認めます。
それでも判断に必要なのは、未来を完全に当てることではなく、その時点で得られる情報から判断基準を持って選ぶことだと話します。
感情に流されず、しかし感情を切り捨てず、獣医師に相談し、牛の状態を見て、回復後の生活を想像し、経営と牛群全体への影響を考え、その判断の責任を自分で引き受ける。それが家畜を飼う仕事だといいます。
そして今回のメッセージから、人間も動物も元気なうちに最期について話しにくい、という点を改めて感じたと語ります。
病気になってから慌てるのではなく、判断基準をあらかじめ持っておくことが重要だといいます。
最後に、亡くなった猫との17年7ヶ月について、川上さんはこう伝えました。
亡くなった猫との時間は、最後の一日の選択だけで決まるものではないと思います。長く一緒に暮らし、日々生活をし、最後までその猫にとって何が良いかを考えた、その積み重ねそのものが関係の全てだと思います。
そして聞き手にも問いを投げかけます。自分自身や家族、動物の命の終わりについて、元気なうちに話したことがありますか、と。
答えを出すためではなく、考えを知るために話しておく。その時間がいつか誰かの判断を支えるかもしれません。
まとめ
川上さんは牛を経済動物として捉え、人や社会にどれだけ貢献できるかを基準に、回復可能性や苦痛、牛群全体への影響を踏まえて命の判断をしていると語りました。延命が牛のためか人間のエゴかを見極め、終わらせ方にも責任を持つことが飼う側の役割だと考えています。
- 命を長く保つことと、その命にとって良い時間を守ることは、必ずしも同じではない。
- 牛は意思表示ができないため、飼い主が回復可能性・苦痛・生活の質・経営・牛群全体への影響から判断する。
- 回復見込みが低く苦痛を伴う延命に労力やお金を使い続けることは、人間のエゴになる場合がある(川上さん個人の考え)。
- 生かす責任だけでなく、終わらせ方に責任を持つことも使用者の役割である。
- 人も動物も、元気なうちに最期について話しておくことが、いつか誰かの判断を支える。
