「できるからやってしまう」疲れはなぜ起きる?
この回は、おぐりんさんの「最近疲れた」という一言から始まります。仕事で新しいチームや新しい人が増えたことが、疲れの理由として挙げられています。
おぐりんさんが「良くない」と感じているのは、やりたいからではなく、できるからやってしまうという構造です。周りからは意思があるように受け取られて仕事を任されるものの、内側にはそれほどの動機がなかったと、やり始めてすぐ気づくといいます。
だいたい(新しいことを)やってちょっとしてすぐ、やっぱこれ嫌だなってなって、やりたくないなってなる。
えばちゃんが「嫌にならないこともあるのか」と尋ねると、おぐりんさんは、嫌になったものしか覚えていないと答えます。凪のような落ち着いた状態から一歩外に出ると、最初は気持ちが揺れ動きやすい、という見立てです。
おぐりんさんは、3ヶ月から半年もすれば文句を言わなくなっているか、その時点でやめているかのどちらかだろうと話します。えばちゃんはこの状態を、クラス替え直後の新学期のようだとたとえました。
クラス替えは、どうやって子どもに知らされていた?
新学期のたとえから、話題は小学校のクラス替えへ移ります。おぐりんさんはクラス替えの経験がほとんどなく、小学校で一度だけ、3年生の途中に替わったといいます。
その理由は、田園都市線沿線の都市開発で児童が増え、2組までだった学年が3組まで増えたからでした。
えばちゃんには、運営側からクラス替えを見た経験があります。母親が小学校の教員だったため、春休みに先生だけが出勤する日に、どの児童を何組にするかを話し合う会議の傍らで見守っていたそうです。
あとピアノ弾ける子を(各クラスに)なんか1人ずつ配置しないとみたいな。
えばちゃんによると、クラス分けではバランスや、クラスが荒れないかどうかも考慮されるようです。
一方で、決まったクラスを子どもがどうやって知ったのかは、2人とも思い出せません。おぐりんさんは、新学年の初日には持ち物に「3年2組」などと書いていたはずなので、登校前には知っていたはずだと推理します。
えばちゃんは、教員の母親のそばでクラス分けの会議を見ていた。ピアノを弾ける子の配置なども考えられていた
決まったクラスを子どもがどう知ったのか。2人とも張り出しやお便りの記憶がなく、保護者に知らされたのかも分からない
連絡網の伝言ゲームから、学年とクラスで決まるお小遣いへ
クラスの知らせ方を考えるうちに、おぐりんさんは昔の連絡網を思い出します。家庭から家庭へ順番に電話をかけていくツリー状の仕組みで、えばちゃんは「伝言ゲーム」だと振り返ります。
今の連絡はアプリやLINEでの一括送信が中心です。ただ、えばちゃんによると、子どもが持ち物をメモして家で保護者に伝える訓練は今もあるそうです。家庭間の伝言ゲームはなくなっても、子どもと親の間には残っているわけです。
続いて、えばちゃんが小学生の頃のお小遣いの話をします。金額の百の位が学年、十の位がクラスで決まっていたといいます。
それは(お小遣いが)だから1年2組なら120円だし。
えばちゃんは3組だったので、1年生のときは130円でした。おぐりんさんが「運命決めるじゃない」と驚くと、えばちゃんは、努力ではどうにもならないものがあると答えます。
でもそうだなと思うよね、環境だなって。手に入るものって環境だなって思う。
漫画は現物支給、本は月1箱で届いた子ども時代
お小遣いの話を受けて、おぐりんさんは自分のお小遣いは現物支給で、たとえばコロコロコミックだったと明かします。
えばちゃんの家では、漫画も本もお小遣いとは別枠でした。本屋で親が買う本の上に自分の本を乗せれば、買ってもらえる仕組みだったそうです。
えばちゃんの家には、本屋から毎月1箱、段ボールで本が送られてくるサービスもありました。届いた本には「科学の友」などがあり、学研とは別のものだったといいます。
おぐりんさんは、子どもの頃に本を買った記憶がなく、学校の図書室で借りていたそうです。初めて本を買った記憶は、中学受験のときに本屋で大量に買った、赤い背表紙の過去問でした。
かいけつゾロリの次は、赤川次郎か「ぼくらシリーズ」か
おぐりんさんが子どもの頃に読んだ本として、かいけつゾロリ、ズッコケ三人組、火の鳥、ぐりとぐら、姉が持っていたこまったさんシリーズを挙げます。
えばちゃんはここで「かいけつゾロリ問題」を持ち出します。かいけつゾロリ ── 原ゆたか作の児童書シリーズ。いたずら好きのキツネ・ゾロリが主人公で、イラストが多く、小学校低学年から中学年に広く読まれていますを読み終えた子どもが、次の段階として読むのにちょうどいい本がない、という問題だそうです。
おぐりんさんには、ゾロリの後の選択肢が2つありました。姉が持っていた赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズと、宗田理の「ぼくらシリーズ」です。えばちゃんも同じく、「ぼくらシリーズ」へ進んだといいます。
えばちゃんいわく、大人向けの小説。おぐりんさんは姉の本を開いたものの、面白いと思えなかったようで読み進めなかった
えばちゃんいわく、まだ子ども向け。おぐりんさんは、好きな女の子にうまく話しかけられない男の子が出てくる世界に邁進した
多分ね、(三毛猫ホームズを)面白いって思えなかったんだと思うんだよね。
えばちゃんは、小学5年生ごろに赤川次郎を読んでいたそうです。
少女漫画からの恋愛小説、そしてビジネス書で小説が読めなくなるまで
中学時代のおぐりんさんは、黒魔術や白魔術が出てくるノベル系の小説や、椎名誠さんの短編の冒険記などを読んでいました。えばちゃんは、ライトノベルなどが流行っていたと振り返ります。
中学後半から高校になると、姉の読む漫画がりぼんやマーガレットから、デザートのような大人向けのものへ変わります。おぐりんさんはその影響で、唯川恵さんの恋愛小説なども読むようになったといいます。
大学卒業まで小説が好きだったおぐりんさんですが、ある時から急に小説が読めなくなりました。新卒の会社では「阪急電車」なども読めていたので、働いていること自体が原因ではないようです。
僕、ロジカルシンキングって言葉すら知らずにベンチャーの企業に転職をして、そこら辺からそういう本たちの波がうわっさって始まってから小説読めなくなったって感じ。
えばちゃんは、小説とビジネス書では「読むときの脳みその場所が違いそう」と応じます。おぐりんさんは今、久しぶりに茂木健一郎さんの「ペンチメント」を読んでいるそうです。
寮生活の高校時代に村上春樹、大学で京極夏彦と東野圭吾
えばちゃんは高校生の頃に村上春樹を読んでいました。おぐりんさんは、本読みの人とそうでない人とでは出発点が違うと感心します。
えばちゃん自身は、寮生活で部活もしておらず、暇だったからだと話します。周辺はコンビニが夜8時ごろに閉まる野山のエリアで、遊びといえば学校の脇の崖を登って先生に注意されることだったそうです。
大学に入ると、えばちゃんは京極夏彦や東野圭吾などの大衆小説を読むようになります。
印象に残った本は、東野圭吾の「むかし僕が死んだ家」
おぐりんさんが、印象に残った本や影響を受けた本を尋ねます。えばちゃんは、初めて読んだ東野圭吾作品「むかし僕が死んだ家」を挙げました。
登場人物が多分自分と彼女しか出てこないの。
登場人物も舞台も少ないのにそれだけ展開を作れることが、えばちゃんの印象に残っていたようです。おぐりんさんがその場で調べると、発売は1997年5月14日。あらすじを見ると、主要な登場人物は「僕」と、7年前に別れた恋人を含めて3人のようでした。
おぐりんさんは東野圭吾作品つながりで、Netflixで竹野内豊さん主演の「さまよう刃」の第1話を観たものの、重すぎて続きを観られずにいると話します。
椎名誠と「岳物語」に感じた、レールの外の世界
昔の本の話をしていて、おぐりんさんは椎名誠さんの名前を20年以上ぶりに思い出します。父親が好きだったらしく、家に本があったそうです。
おぐりんさんが子どもの頃に読んだのは「岳物語」でした。椎名誠さんの息子の岳さんを主人公に、プロレスと釣りが大好きな生意気盛りの小学生の成長を描いた物語です。
同じ頃、イカダで大海原へ出るようなエドウィンのジーンズのCMが流れていて、おぐりんさんはその原風景に強く惹かれたといいます。
えばちゃんが「何が憧れだったのか」と尋ねると、おぐりんさんは「都会っ子だからじゃない?」と答えます。受験勉強の前は、アリ地獄を見つけたり、バッタやカマキリを捕まえたりして外で遊ぶ子どもでした。
(学研の付録を)開けちゃいけないって書いてるのに開けちゃうから。
おぐりんさんは、受験や学校のシステムのレールに放り込まれる中で、そうではない世界をCMと本から感じたのだろうと、今になって解釈しています。えばちゃんは「元々あったものなんだよね。あったはずなのにどっか行っちゃった」と受け止めます。
アリ地獄を見つけ、虫を捕まえ、付録を開けてしまうような外遊びの子ども
受験や学校のシステムのレールに入り、椎名誠の本やCMに「そうではない世界」を感じる
人間は「バージョン0」に戻っていく
子ども時代の記憶を受けて、おぐりんさんは2018年ごろから考えている人間観を語ります。成長は「バージョンを上げる」と表現されがちですが、人間はむしろ戻っていくほうが豊かなのではないか、という考えです。
えばちゃんは、そのバージョン0の邪魔をしてはいけないと応じます。邪魔をするのは自分の色眼鏡だけでなく、子どもの周りの大人や、大人になってから周りにいる人も含まれます。
おぐりんさんは、えばちゃんの考えに納得しつつも、大人自身もさまざまな影響を受けて生きているので、子どもの邪魔をしない循環は難しいと話します。自己を認識していないと難しい、という見方です。
おぐりんさんは例として、以前番組にゲストで来たミツさんとポリさんの回を挙げます。ポリさんが誰よりも娘さんの可能性を信じている一人だという接し方を、すごいと感じたそうです。えばちゃんは、元々素晴らしいと分かっているから邪魔をしないのだと受け止めました。
シンパシーとエンパシーは、自他の境界線をどう分ける?
おぐりんさんは、シャドウ ── 心理学者ユングの概念で、自分では認めたくない性質や抑圧した側面のこと。他人にその性質を見ると強く反応してしまうことがあるとされますや執着は、相手を自分の子だと認識したときのほうが強く出ると感じています。経験していない立場で言うのは難しいと前置きしたうえで、実子でないほうが距離をとれるのかもしれない、と想像を語りました。
血がつながってるかどうかよりも、そのどれぐらい自分と同一視してしまうほど、その相手との境界線が見えなくなってしまうほど近くに感じてるかどうかだとは思うけど。
おぐりんさんは、以前2人で話したエンパシーとシンパシーの違いを持ち出します。えばちゃんの見方は、「私は私、あなたはあなた」というゲシュタルトの祈り ── ゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズによる詩。「私は私のことをし、あなたはあなたのことをする」と、自他の境界を尊重する考えを示したものですの世界線に近いエンパシー寄りだといいます。
私は私、あなたはあなたとして、自他の境界を保ったまま相手を見る
感情が先に動き、自己と他者が同一化して境界線がなくなり、苦しむ構造に陥りやすい
おぐりんさんは自分を「感情の動物でシンパシーの生き物」と表現します。何とかしてあげたい気持ちが強いほどシャドウが発動し、人の可能性の芽を摘んでしまうことがある、という認識です。
おぐりんさんによると、自他の同一化は家族に限らず起きます。以前、面接で現職への不満を語る人にどう声をかけるか悩んだ話をしたことがあり、どんな場所でも起きるといいます。
会話はすべて「自分の物語」なのか?
えばちゃんは、シンパシーが起きて何か言わなければという衝動に駆られるとき、人は相手の物語ではなく、自分の物語で騒いでいるのだと話します。
これこれは私の物語であって、今話してるのは彼の物語であってっていう。
おぐりんさんは、そもそも人間の会話はすべて自分の頭の中にあるものを話しているのではないかと考え、浮かない顔をしていたといいます。それでも、互いに出し合ったものの間に新しいものが生まれ、それぞれの世界に持ち帰る場もあると話します。
えばちゃんの答えは明快でした。
えばちゃんはその様子を、透明な防音の卵に1人ずつ入っている状態にたとえます。相手の姿は見えるのに、話しているつもりでも自分の声のこだまが返ってくる、というイメージです。
おぐりんさんがこれを自覚したきっかけは、ある本で読んだ1on1の話でした。相手の発言ばかりメモするのではなく、自分の発言をメモすると自分の思考がわかる、という内容だったそうです。
シャドウは「傷ついた引き出し」が開くときに出る
おぐりんさんは、シャドウや執着が強く出るときと出ないときの違いを問いかけます。えばちゃんは、自分が特に傷ついた経験と関係していると答え、番号札と引き出しのたとえで説明しました。
札が来る
相手の話から「3番」という札が届く
見覚えがある
自分にも3番があると感じ、3番の引き出しを開ける
傷が入っている
引き出しの中には、自分が傷ついた経験が入っている
聞き捨てならない
その3番の話に強く反応してしまう。これがシャドウ
おぐりんさんは面接の例を振り返ります。先輩の「この会社は従業員を大事にしない」という言葉を理由に転職活動をしている人に対し、自分の目で確かめずに決めてしまうのは「もったいない」と感じていたといいます。
えばちゃんは、「もったいない」くらいなら心が強く動いているわけではないのでは、と指摘します。おぐりんさんも「最近ちょっとわからんのよ」と答え、自分よりシンパシーが強く起きている人を見ると、自分の中にも同じものがあると気づけると話しました。
シャドウをぶつけられないのは寂しい?
えばちゃんは、自分はシャドウを向けられやすいと話します。理由は、おそらく他の人から見て不可解な存在だからだろうといいます。
おぐりんさんも、2019年ごろまでは他人からシャドウを向けられることが多かったと思い出します。会うたびに比較され、ライバル視されていたそうです。一方、えばちゃんはライバル視されたことがなく、「ジャンルが違う」と笑います。
そしてすごい今悲しい気持ちなんだけど、最近誰からもシャドウをぶつけられない。
えばちゃんの見立てでは、おぐりんさんが受けていたシャドウは、自分より少し先にいる人に向けられるものでした。おぐりんさんがそのレースから降りているから、今はライバル視されないのだといいます。
えばちゃん自身は、会社で寝ているとシャドウをぶつけられるそうです。おぐりんさんは、それを「自由のシャドウ」だと受け取りました。
俺、今、グラウンドじゃなくて観客席にいるのかもしんないなって思って、ちょっと寂しくなったんだよね。
えばちゃんは、グラウンドに戻るなら発言数を増やす必要があると返します。おぐりんさんによると、職場のSlackの投稿数は急増しているものの、前の会社の3分の1ほどだそうです。
最後に、おぐりんさんは疲れていると、Notionで作った人事のサービスメニューを見て「マジ天才だわ」と自分を褒めてしまうと笑います。3連休を前に、予定を詰めるのではなく自由を楽しもうと話して、この回は終わります。
まとめ
仕事の疲れから始まった雑談は、クラス替えや読書遍歴を経て、他者との境界線とシャドウの話へ広がりました。子ども時代の記憶を手がかりに、人が本来持っていたものを邪魔しないとはどういうことかが語られています。
- おぐりんさんの疲れは、やりたいからではなく「できるからやってしまう」構造から生まれていた
- かいけつゾロリの後、2人とも「ぼくらシリーズ」へ進み、その後の読書遍歴は大きく分かれた
- おぐりんさんは、人間は「バージョン0」に戻るほうが豊かだと考え、えばちゃんはその邪魔をしないことを重視する
- えばちゃんは、シンパシーで騒ぐとき人は自分の物語を語っているとし、シャドウを傷ついた引き出しが開くことにたとえた
- シャドウを向けられなくなったおぐりんさんは、レースを降りて観客席にいる寂しさを語った






