SNSでつながった3人と、缶一筋の側島製罐
ローカル企業経営ラジオは、京都と鹿児島の老舗企業の後継ぎである桺本頌大さんと小平勘太さんが、事業承継と経営の現実を自らの経験から語る番組です。桺本さんは創業135年のアナテック・ヤナコの7代目予定、小平さんは創業115年の小平株式会社に携わっています。
今回のゲストは、側島製罐の石川貴也さんです。小平さんとはXで知り合い、名古屋に行く際に一度会っただけですが、SNSでは毎日互いの発信を見ている間柄だといいます。
桺本さんとも3〜4年前にXで連絡を取り合い、石川さんが京都まで会いに行ったのが付き合いの始まりでした。
僕が京都に押しかけてですね。
石川さんは、側島製罐を「創業120年の缶のメーカー」と紹介します。お菓子、カーワックス、蚊取り線香、海苔、あられなどのパッケージ缶を作り、100年以上缶作り一筋で続けてきた会社です。
石川さん自身は金融機関で約10年働いたあと、親が体調を崩したことをきっかけに2020年4月に家業へ戻り、収録時点で6年半ほどが経っています。
まあ後継ぎあるあるな感じですけど、
「6代目」があいまいになる理由は戦争にあった
石川さんは6代目を名乗りますが、120年前に誰が経営していたかは怪しい部分もあり、「わかる範囲で6代目」だと話します。桺本さんの家も7代目とされながら、戦争の時期に曽祖父が出征し、祖母が一時的に継いだかもしれないなど、途中がはっきりしないといいます。
うちも一回潰れた説もあるし。
小平さんの家でも、戦中に事業が一度途切れているのではないかという説があるそうです。
側島製罐の場合は、大空襲で工場が全焼しました。そこから周囲の力を借りながら、一度はやめようと思ったけれど頑張っている、という記録だけが残っているといいます。
事業自体は一時停止はしてると思うんで。
桺本さんは、京都の日本酒の蔵なども含め、100年以上続く会社には一度焼け野原になった経験を持つところが少なくないと応じています。
銀行を選んだ本音は「定時で帰れる仕事」
桺本さんは、側島製罐のクラウドファンディング ── インターネットを通じて不特定多数の人から資金を集める仕組み。商品開発や出版など、さまざまなプロジェクトに使われていますによる社史づくりや自己申告型の休業制度、noteでの事業承継やミッション・ビジョン・バリューの話など聞きたいことは多いとしたうえで、今回は石川さんの経歴に焦点を当てます。
石川さんの最初の就職先は、一般の銀行ではなく日本政策金融公庫 ── 国が出資する政策金融機関。中小企業や個人事業主への融資、創業融資などを担っていますでした。本人いわく、就活をあまり頑張れず、第7志望ぐらいで入った会社です。
もう当時は全く働く意欲がなくって、(ネットの)ホワイト企業ランキング上からちょっと見てくみたいなぐらいの感じだったんで。
表向きの志望動機は、親が会社を経営していることもあって「中小企業支援がしたい」というものでした。ただ本音は、定時で帰れて、それなりにお金がもらえる仕事がしたいという程度だったと振り返ります。
大学時代に家業を継ぐ意識があったかと聞かれると、石川さんは「全く」と答えます。小学生の頃は会社のことを言われていましたが、高校の頃から業績が右肩下がりになったこともあり、親はだんだん言わなくなったそうです。
なんで辞める前提でなんか就活やんなきゃいけないのみたいな。
就活中に母親から「何年かしたら家業に行くかもしれないからね」と言われたことは、すごく嫌だったといいます。また、後継ぎがいったん金融機関に勤めるパターンは、石川さんの世代までは「どちらに転んでもいける安牌」としてあったものの、最近はほとんど見かけないとも話しています。
2〜3年目の逃げ道を閉じた父のLINE
家業に戻る選択を最初に考えたのは、公庫に入って2〜3年目の頃でした。営業がとにかく嫌で、一刻も早く辞めたいと思っていたそうです。
毎日やっぱホワイトボードに今日いくらやるんだみたいな書いて、夕方また呼ばれて、いくらやったんだみたいな。
逃げるように家業へ帰りたいと考え、父親に「どうかな」とLINEを送ったところ、返ってきたのは「営業ができるやつがやっぱり欲しいな」という言葉でした。
他の会社への転職活動もうまくいかず、石川さんは我慢して公庫の仕事を続けることにします。ところが、その後は営業がものすごく好きになり、この会社で生涯やろうという気持ちに変わっていきました。
数字に追われる営業がきつく、2〜3年目には逃げるように家業へ帰りたいと考えていた
仕事ができるようになり実績も出て、紹介で仕事が回るようになり、生涯この会社でやろうと思うほど営業が楽しくなった
転機を聞かれた石川さんは、いろいろな仕事ができるようになり、実績が出てやりがいを感じたことを挙げます。飛び込みで融資を勧める営業もしながら、軌道に乗ると紹介だけで回り、やればやっただけ喜んでもらえる「ゾーン」に入ったといいます。
公庫ならではの難しさは創業融資でした。創業する人のところへは営業に行けないため、創業する人たちが集まる場でコネクションを作り、紹介してもらえる関係づくりに力を注いでいたそうです。
公庫での在籍は約10年とされますが、実際には浜松に4年、千葉に2年、本店に1年ちょっと、出向が1年で、9年ちょっとだったと石川さんは整理しています。
父ではなく母が伝えた「戻ってきてほしい」
33歳で家業に戻るきっかけについて、石川さんは父親からは何も言われなかったと話します。間に入って父の思いを伝える「通訳」は母親で、これもよくあるパターンだといいます。
母親は、父の状況を伝えたうえで「戻ってきてほしいとは思っていると思うよ」と石川さんに話しました。石川さんはそこから悩みに悩んだそうです。
当時の側島製罐は厳しい状況にありました。売上は20年ほどかけて15億円から5億円を切るまで下がり、大きな借金も抱えていたため、利益を出してもほぼ返済で消える状態だったといいます。
石川さんは、父親が良い時代を知っている分、この状態の会社を継がせることを申し訳なく感じていたのではないかと推し量っています。
「何者でもない」と知った新人時代と、補欠の悔しさ
小平さんは、石川さんがnoteに書いてきた公庫時代のエピソードが好きだと話し、窓口業務で泣いた話や審査の思い出、内閣官房への出向などが今にどうつながっているかを尋ねます。
石川さんは、今の仕事の基礎は公庫で鍛えられたおかげだと心の底から思っていると答えます。とてもきつかったものの、すごく良い会社だったと振り返っています。
1年目の石川さんは仕事ができなさすぎて泣きまくっていたといいます。隣で指導してくれたのは、勤続40年近い50代後半の超ベテランの女性で、指導は的確で仕事も速い一方、基準がものすごく高く厳しい人でした。
新卒で「よしやるぞ」と思った瞬間に鼻を折られたこの経験を、石川さんは「やっておいてよかった」と話します。勘違いしたまま社会人を続けるのはよくないし、それは経営者になっても同じで、自分が何者でもないというスタート地点に立てたことが良かったという考えです。
小平さんは、自分や桺本さんは生意気な新入社員だったと笑い、周りの経営者には入社初日に社内改革案を上司に持っていった人も多いと話します。そのうえで、石川さんの謙虚さが社員目線につながっていると感じたといいます。
実はサラリーマンの時はちゃんとサラリーマンできてました、意外と。
もう無理です。もう経営者に毒されてるんで。脳みそが。
小平さんはさらに、内閣官房のまち・ひと・しごと創生本部への出向経験が、社員だけでなく家族や地域まで含めたコミュニティへの目線や、人を機能の一部として扱わない姿勢につながったのではないかと尋ねます。
石川さんは、地方創生の仕事で自分の仕事が一人一人の明るい未来につながることを大事にしていたと認めつつ、個人に目を向ける姿勢の原点は高校の部活にあると話します。強豪のバスケ部で、石川さんはずっと補欠でした。
バスケ部ではレギュラー陣が優先され、Cチーム、Dチームは別の場所で練習しているような扱いだったといいます。その悔しさとやるせなさが大きかったと石川さんは振り返ります。
念書を渡して入った会社は「犯人探し」の最中だった
話題は、石川さんが戻った当初の側島製罐に移ります。桺本さんは、noteを読む限り、最初は今の石川さんからは想像できないほど怒鳴ったり怒ったりして、うまくいかなかった時期があったようだと切り出します。
小平さんが触れたのは、石川さんが父親に渡した念書です。石川さんによると、念書は入社前に書いたものでした。
帰省するたびに父親と話が合わなくなり、「銀行の仕事なんてダラダラやってるだけだろ」「楽してていいよな」と言われたり、酔うと好き放題言われたりするのが嫌だったといいます。そういう人とは働きたくないと考え、条件を念書にして渡したのが始まりでした。
入社後、父親は念書を読み、100パーセントではないものの意識して守ってくれていたそうです。それよりも深刻だったのは、会社全体が沈んでいたことでした。
もうね、だから(会社全体が)犯人探ししてる状態なんですよね。
石川さんの説明では、昔は降ってくる仕事をこなし続ければ儲かる時代が長く続きました。同じことをずっと頑張っているのに給料もボーナスも減っていく中で、社員は「誰かが悪いに違いない」と考えるようになったといいます。
過去の成功
降ってくる仕事をこなし続ければ儲かる時代が長く続いた
業績の悪化
同じことを続けても、時代の変化で業績が下がる
待遇の低下
給料が上がらず、ボーナスも減る
犯人探し
誰かが悪いに違いないと考え、組織が空中分解したような状態になる
立ち話を重ねた対話と、怒鳴ってしまった時期
組織の立て直しとして、石川さんはまず道具を整えました。「俺は聞いてない」「私は言った」という言った言わないの喧嘩をなくすためにSlack ── ビジネス向けのチャットツール。やり取りが記録として残るため、連絡の行き違いを減らす目的で導入されることが多いですを入れ、手書きと電卓の計算をなくすためにパソコンを買い、Excelで計算するようにしたといいます。
ミッション・ビジョン・バリューづくりなども行いましたが、石川さんがずっと続けてきたのは対話でした。1on1は下手でうまくできなかったものの、すれ違ったときの立ち話のようなやり取りを本当にたくさん積み重ねたそうです。
桺本さんが、雰囲気を良くするために意識して話しかけていたのかと聞くと、石川さんはそうした意図は全くなかったと答えます。30秒前にニコニコ挨拶していた人が、戻ってきたときには怒って無視するようなことが日常茶飯事だったからです。
やっぱ「何かあったの?」みたいな。なんかそういうのをずっと聞いてた気がします。
桺本さんは、後継ぎの立場から声をかけると注意だと受け取られる可能性もあるのではと尋ねます。石川さんは、そう取った人もいたかもしれないとしつつ、当時は役職もない33歳の平社員で入社数か月だったので、そこまでではなかったと思うと話しています。
一方で石川さんは、自分も未熟だったと認めます。慣れてくるにつれ、父親の姿を見て「怒らなければいけない」と思い込み、怒鳴ることが多くなったといいます。
でも当時はなんか怒ることが大事なんだって思い込んでやってましたね。
感情的になりやすいことはもともと自分の課題だったと石川さんは話します。誤解で頭ごなしに怒ってしまい、相手が「辞めてやる」と言い出したこともあり、日々が修羅場だったそうです。
桺本さんは、感情的になる面がなくなってから石川さんと出会ったため意外だったと話し、組織運営には修羅場がつきものだと応じます。次回は、側島製罐の組織を変えていった話に入る予定です。
まとめ
石川さんは、継ぐ意識のないまま日本政策金融公庫に入り、一度は父のLINEで家業への道を閉ざされながらも、営業の面白さを知って約9年働きました。母を通じて父の思いを知り33歳で戻った会社は業績悪化の中で犯人探しに陥っており、石川さんは道具の整備と立ち話の対話を重ねつつ、自分自身も怒鳴ってしまう未熟さと向き合っていました。
- 側島製罐は空襲で工場が全焼した記録を持つ創業120年の缶メーカーで、石川さんは6代目にあたる
- 公庫2〜3年目に家業へ逃げようとしたが、父の「営業ができるやつが欲しい」という返事で思いとどまり、その後営業が好きになった
- 父は「継いでくれ」とは言わず、売上が15億円から5億円を切るまで落ちた会社に、母の言葉をきっかけに戻った
- 新人時代に何者でもないと知った経験と、補欠として「その他」扱いされた悔しさが、個人に目を向ける姿勢の原点になっている
- 戻った当初は犯人探しの組織に対し、Slackやデジタル化、日常の立ち話による対話を重ねた一方、自分も怒鳴ってしまう時期があった



