双子のように一心同体だった兄弟の素顔
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ライト兄弟はアメリカのインディアナ州で生まれ、オハイオ州で育ちました。樋口さんによると、どちらもトウモロコシ畑が広がる中西部、いわゆるコーンベルト ── アメリカ中西部に広がるトウモロコシの大生産地帯の通称。アイオワ州、イリノイ州、インディアナ州、オハイオ州などが含まれますと呼ばれる地域です。
兄がウィルバー・ライト、弟がオービル・ライトで、上に2人の兄、下に妹が1人いる家族構成でした。楊さんによれば、ライト兄弟は双子のように一心同体で、一緒に住み、一緒に働き、貯金まで1つの口座だったといいます。
やりすぎやろ。そこまでせんでも。
ライト兄弟は声までよく似ていて、別の部屋で聞くとどちらが話しているかわからないほどだったそうです。仕事中に気づけば2人で同じタイミングで口笛を吹いていた、という話も残っています。
ライト兄弟の2人に共通していたのは、ワーカホリックに近いほどの勤勉さです。礼儀正しく、強い酒やタバコ、ギャンブルには手を出さず、2人とも生涯独身でした。
楊さんが面白いと強調するのは、ライト兄弟がどちらも大学に行っていない点です。高学歴の科学者ではなく、体系的な高等教育を受けていない現場叩き上げの職人でした。
一方で、ライト兄弟の性格には違いもありました。楊さんの説明を整理すると、次のようになります。
生真面目で内省的、過集中。他人の言葉に動じずマイペース。人前で話すのは苦手だが、話すと的確で文章力も高い
柔らかく陽気で楽天的。家では冗談を言うが外では恥ずかしがり屋。ビジネスセンスがあり、批判や嘲りに敏感
物作りの母と読書を重んじた父は、兄弟に何を残したか
楊さんによると、ライト兄弟の両親は兄弟に大きな影響を与えていました。母親は物作りの天才で、家具でも何でも自分で作ってしまう「DIYママ」のような人だったといいます。
ライト兄弟の母親は物作り職人のドイツ人の家系の出身で、おもちゃ作りも上手でした。その影響もあり、兄弟は小さい頃から機械いじりや工作が好きで、母親は兄弟の作ったものを何一つ処分せずに残したそうです。
弟オービルには、小学生のとき机で木のかけらをいじっていて、先生に何をしているのか聞かれ「機械を作っています」と答えたという逸話も残っています。ただ、兄弟の母親は兄弟が20歳の頃に結核で亡くなりました。
ライト兄弟の父親は牧師で、地元の名士でした。「仕事を優先し、楽しみは後に回す」「必要な金とは、他人に迷惑をかけない程度の金のこと」といったストイックな教えを兄弟に説いていたといいます。
ライト兄弟の父親がもう1つ重んじたのが読書です。家の本棚には哲学、思想、歴史、文学、百科事典、ダーウィンの『種の起源 ── 1859年にチャールズ・ダーウィンが発表した著作。自然選択による生物の進化を論じ、科学だけでなく宗教や思想にも大きな影響を与えました』まであり、家にいるときは誰もが本を読んでいたという記述が残っています。
ライト兄弟の父親は厳しい一方で柔軟でもあり、兄弟が教会に行かなくなっても怒らずに受け入れたそうです。仕事で各地を回る父親は、その土地の出来事を手紙で子どもたちに細かく伝え、その手紙が兄弟の好奇心を刺激したと伝わっています。
チンピラに襲われた兄の引きこもりと、弟の起業
青年期のライト兄弟は、大きな転機を迎えます。兄ウィルバーは高校時代、成績優秀でスポーツ万能の目立つ生徒で、名門イェール大学に進学する話もありました。
ところがウィルバーは、半グレのチンピラにアイスホッケーのスティックで顔面を殴られ、上の前歯を全部折られる大怪我を負います。激痛に加えて消化不良などの合併症、さらに精神不安と抑うつが続き、引きこもってしまいました。
鎮痛のために麻薬系の薬を使って依存症になっちゃって、精神のバランス崩しちゃうんですよ。
それ(鎮痛の薬)は別に悪い薬だったわけじゃなくて、当時処方されてた普通の薬なんだけど、依存性の高い鎮痛剤だったので。
ウィルバーの大学進学の話は立ち消えになり、その後3年間を家で過ごします。ただ、公教育より家庭での学びを重んじる父親のもとで、ウィルバーは手当たり次第に本を読み、なかでも歴史の本に最も関心を寄せていたそうです。
同じ頃、弟オービルは高校に通いながら印刷業を始めます。ガラクタを集めて印刷機を自作し、地元の話題を載せた新聞を創刊して広告も取り、利益まで出しました。新聞づくりには兄ウィルバーも誘われて手伝っています。
| 人物 | きっかけ・状況 | していたこと |
|---|---|---|
| 兄ウィルバー | 暴行による大怪我と心身の不調 | 3年間引きこもり、歴史を中心に読書 |
| 弟オービル | 高校在学中 | 印刷機を自作し、新聞を創刊して利益を出す |
自転車ブームに乗った兄弟の自転車屋はなぜ当たったのか
弟オービルは、さらに自転車屋を創業します。当時のアメリカでは自転車が大流行していて、楊さんは今でいう電動キックボードのような「時代の最先端のアイテム」だったと説明します。
当時の宣伝文句には「自転車は人類全体に与えられた恵み」とあり、美容や健康によく、人生観さえ変えると言われました。その一方で、家出した子どもが遠くまで行ってしまう、勉強がおろそかになるといった道徳面での批判もあったそうです。
ゲームやん。
ライト兄弟にとって自転車は、人生で初めて身近に体験した技術革新でした。兄弟も自転車で遠くの遺跡を見に行くなどしていて、徒歩の生活が自転車で一変する世の中の変化をリアルタイムで見ていたといいます。
ライト兄弟の自転車屋は販売と修理から始めましたが、地元には同じような店が次々と開業し、競争が激しくなります。そこで兄弟は、カラーリングを選べるオーダーメイドのオリジナルモデルとショールームを打ち出し、ヒットを飛ばしました。
順調な事業を捨てて、なぜ飛行機だったのか
自転車事業が軌道に乗って4年ほど経った頃、兄ウィルバーは別のことを考えていました。きっかけは、グライダーで2500回ほど飛んだオットー・リリエンタール ── 19世紀ドイツの航空研究者。自作のグライダーで数多くの滑空飛行を行い、1896年に墜落事故で亡くなりましたの本です。
楊さんによると、ウィルバーはリリエンタールの本に強く惹かれ、ちょうどその頃リリエンタールは墜落して亡くなっていました。リリエンタールをきっかけにウィルバーは航空技術の専門書を読み込み、弟も続いて、兄弟は飛行機を作ろうと決心します。
楊さんは、ロマンを追う気持ちもあったにせよ、ライト兄弟はビジネス展開をゴールとして飛行機の世界に入ったと強調します。
今で言うと宇宙産業とかメタバースとかに進出するぐらいの感覚で、空よ!みたいな。
ライト兄弟には、空を飛ぶことの原体験もありました。幼い頃に父親が買ってきたゴム動力の飛行おもちゃに夢中になり、壊れるまで飛ばし続けたそうです。
楊さんによれば、そのおもちゃはフランスの航空学者アルフォンス・ペノーが研究用に設計した飛行模型をもとにしたものでした。ペノーは早熟の天才でしたが世間に認められず、貧困と病気に苦しんで30歳で自殺した人物で、楊さんはこの縁を「バトンが渡されていく」と表現しています。
笑われる研究に、独学の職人が挑んだ構図
当時の飛行機研究は、楊さんの感覚では「科学とトンデモ科学の間」のようなものでした。墜落事故は新聞で笑いのネタにされ、地に足の着いた仕事とは見なされていなかったといいます。
国や企業もお金を出していましたが、費用がかかるばかりで目立った成果は出ていませんでした。そこへ、専門教育も資金援助もない若い自転車職人が独学で挑んだわけで、楊さんは「割と難易度高めな構図」だと語ります。
ライト兄弟がまず取った行動は、兄ウィルバーによる手紙でした。宛先はアメリカの国立学術機関であるスミソニアン協会 ── 1846年に設立されたアメリカの学術・博物館機関。現在も国立航空宇宙博物館など多くの博物館と研究施設を運営していますで、有人飛行は実現できると確信しているので資料を提供してほしいと依頼します。
スミソニアン協会は兄弟を応援することにし、航空学の資料や文献を気前よく送りました。ライト兄弟はこの資料をもとに、飛行機の理論を猛烈な勢いでキャッチアップしていきます。
先人のデータは間違っていた? 風洞を自作した地道な検証
ライト兄弟は実験用のグライダーを組み立て、墜落しては修理して飛ばし、実験データを細かく取り続けました。ある本によると、その過程で兄弟は衝撃的な事実に気づいたといいます。
リリエンタールやシャヌート ── オクターヴ・シャヌート。19世紀末のアメリカの技術者・航空研究者で、グライダー実験や航空文献の整理を行い、ライト兄弟とも交流がありましたといった先人が確立し、長く信頼されてきた計算やデータが、兄弟の実験では使えないとわかったというのです。楊さんは、これは1冊の本にしか書かれておらず、どこまで本当か、誇張があるかはわからないと断っています。
(リリエンタールは)2500回飛んだのに?
兄ウィルバーは激しく落ち込み、「これから1000年間、人間は空を飛べない」とまで言い切って自暴自棄になったと記録に残っています。しかしすぐに立ち直り、自分たちの手で一から基礎データを集めることにしました。
ライト兄弟は実験を切り上げて帰宅し、翼にかかる空気の力を測るための風洞装置 ── 人工的に空気の流れを作り、模型に風を当てて力や流れを測定する実験装置。現在も航空機や自動車の設計に使われていますを家の2階に自作します。いろいろな形の翼の模型に風を当てて数値を測り、地道にデータを取り続けました。
グライダー実験
墜落と修理を繰り返し、データを細かく記録
先人のデータへの疑問
リリエンタールらの数値が実験と合わないと気づく(1冊の本による)
落胆
ウィルバーが「1000年間飛べない」と自暴自棄に
風洞装置の自作
家の2階で翼の模型に風を当て、基礎データを一から計測
鳥の観察から生まれた「ねじれ翼」という突破口
楊さんによると、ライト兄弟の研究成果の核心は、空中での機体制御に成功したことです。上下の揺れや風の中でも落ちずに安定して飛べることが、飛行の重要なポイントでした。
兄ウィルバーは日曜日になると川岸で何時間もバードウォッチングをしてノートに記録し、鳥が翼の先端の角度でバランスを取っていることを発見します。片方の翼を上げ、もう片方を下げて、空気の流れにリアルタイムで反応していたのです。
ライト兄弟は、鳥が翼を主体的に動かして「操縦」していると考えました。先駆者のリリエンタールも操縦に注目してはいましたが、体の位置を変えて重心を調整する原始的な方法で、精密な操作はできなかったといいます。
そこでライト兄弟が開発したのが「ねじれ翼」です。当時のグライダーには、曲がろうとすると横滑りして墜落する課題があり、楊さんはバイクがコーナーで車体を傾けないとスリップするのと同じだと説明します。
ねじれ翼は、操縦者がワイヤーで翼全体をねじり、機体を傾ける仕組みです。左右の翼の揚力 ── 翼が空気の流れから受ける、機体を持ち上げる方向の力。翼の形や角度、速度によって大きさが変わりますを変えることで機体を傾ける(ロールさせる)原理で、楊さんは現在の飛行機も基本的にこの原理で飛んでおり、ライト兄弟の最大の業績と言われていると語ります。
ライト兄弟は、ねじれ翼に舵を組み合わせることで、グライダーの3次元の動きを制御できるようにしました。
安定性をあえて捨てるという非常識な発想
楊さんによると、ライト兄弟はここでもう1つ発想の転換をしています。それが、機体そのものの安定性をあえて捨てることでした。
ジョージ・ケイリー ── 19世紀イギリスの研究者で「航空の父」とも呼ばれます。固定翼の飛行機の基本構成を考え、グライダーの研究を行いました以来の飛行機開発は、翼を斜めに取り付ける上半角のように、機体自体を安定させる方向を目指していました。しかし上半角の翼は、突風が吹くと元に戻ろうとする力とぶつかり、かえって機体が震えて不安定になることがあったといいます。
ライト兄弟は、どうせ人間が乗って操縦するなら、鳥のように操縦で安定を保てばよいと考えました。翼を水平か下向きに傾け、機体の安定性を下げる代わりに操縦の自由度を上げ、操縦システムと操縦技術でバランスを取るという発想です。
上半角などで機体自体を安定させる。ただし突風など環境の変化に弱い
機体の安定性を捨てて運動性を優先し、操縦で安定を作り出す
本当にバイクみたいなことで、自分でバランス取るみたいなことを(操縦で)。
楊さんによれば、操縦システムの性能から機体の設計を決めるこの考え方は、今日の運動能力向上機 ── CCV(Control Configured Vehicle)と呼ばれる設計思想の機体。飛行制御システムの働きを前提に機体を設計し、運動性を高めますにつながっています。現在は人間ではなくコンピューターが制御を担っていると補足されています。
ライトフライヤー1号を完成させた影の立役者
ライト兄弟は研究成果と発想の転換を詰め込み、実験機ライトフライヤー1号を開発します。グライダーを改良し続け、人を乗せての滑空、旋回、着地まで確実にできるようになり、あとはエンジンを載せるだけでした。
ところが、自動車のエンジンメーカーに手紙を出しても、軽くて出力の出る、兄弟が望む仕様のエンジンはありませんでした。ライト兄弟自身も、エンジンを組み立てた経験はなかったといいます。
壁を突破したのは、兄弟の自転車屋で働いていた職人チャーリー・テイラーです。昔に一度エンジンを修理したことがあるだけでしたが、兄弟の求めに応じてエンジンを作り上げてしまいました。
え、チャーリー得意やけど。いいよいいよ。エンジン作る作る。できたよ。軽い。すごい早いみたいな。
楊さんは、ライト兄弟の業績ばかりが注目されるものの、チャーリー・テイラーは「マジで影の立役者」だと語ります。
1903年12月、12秒の初飛行から約1分の飛行へ
ライト兄弟の機体にテイラーのエンジンと2枚のプロペラを付け、ライトフライヤー1号が誕生します。新しい機体ができたら人を乗せていきなり飛ばす、命がけのぶっつけ本番の実験でした。
1903年12月14日、コインを弾いて兄ウィルバーが先に乗ることになりましたが、操作ミスで落ち、この日は失敗します。3日後の12月17日、寒い北風が吹くなかで、今度は弟オービルが乗る番でした。
ライト兄弟は別れを告げるかのように握手を交わし、オービルは腹ばいの操縦姿勢に入ります。午前10時35分に発進したフライヤー号がレールの先端から飛び出した瞬間の写真は、20世紀で最も有名な1枚になりました。
最後の飛行で機体は壊れましたが、楊さんは「そんなことはどうでもよかった」と語ります。2時間にも満たない出来事でしたが、歴史の転換点となりました。
ライトフライヤー1号は、動力付きで気球の補助なしに、パイロットが乗って継続的に飛行し、機体を操縦することに成功した最初の機体とされます。グライダーと違い、離陸地点と同じ高さに着陸したことも重要なポイントでした。研究着手から4年で、兄弟は空を飛ぶ夢を現実にしたのです。
復元機は飛べなかった? 「0分と1分」の違い
楊さんは話をまぜ返すように、21世紀に復元されたライトフライヤー1号が飛べていないことを紹介します。復元の研究はいくつか行われましたが、完成した復元機は離陸すらできなかったそうです。
え?どういうこと?ちょっと待って。(ライトフライヤー1号は)根性で飛んだってこと?
諸説あるものの、成功した日は強い風と兄弟の高い操縦技術に助けられ、運も含めた条件が奇跡的にかみ合ったと考えられているといいます。
難しいだろうね。だってワイヤーで羽を動かしながら飛ばなきゃいけないから。落ちたら死ぬかもしれない緊張感の中。
バイク乗ってこけたらこのバイク乗れんわって思って失敗品やって言いますわ。でも練習したら乗れるもんなバイクって。
わずか1分ほどの飛行でしたが、深井さんはそこに至るまでの長い歴史に目を向けます。
偉業を支えたのは技術だけではなく教養だった
樋口さんは、ライト兄弟の伝記を書いたデイビッド・マカルーさんの視点を紹介します。日本では『ライト兄弟 イノベーション・マインドの力』として草思社から出ている本です。
マカルーさんはもともと、19世紀にパリへ渡ったアメリカ人を研究していて、その中でパリに滞在した兄ウィルバーを知ったそうです。ウィルバーはルーブル美術館に足しげく通い、ゴシック建築に心を動かされるなど、文化教養の高い人物として振る舞っていました。
樋口さんによると、マカルーさんは、ライト兄弟の偉業の背景には深い教養、つまりリベラルアーツ ── 特定の職業のための技術ではなく、哲学、歴史、文学、科学など幅広い分野を学び、考える力を養う教養教育のことの力があったのに、ほとんどの人が見逃していると考えました。家族の手紙を読み込むと、父も母も妹も文才に優れていたといいます。
突然その技術から入ったりとかしないわけですよね。この人たち、すごく3年間めっちゃ勉強してからその飛行機に入っていくわけですよね。
スミソニアン協会に連絡して既存のデータを集めることも含め、ライト兄弟の一つひとつの発想は、教養に裏打ちされた一歩ずつの積み重ねだったと樋口さんは語ります。楊さんも、兄弟は何をインプットすべきかを考えて独学で座学をしていたと応じ、マカルーさんの本を勧めています。
番組は、飛べたところで終わってもいいほどだという深井さんの言葉とともに、残り2話で人間模様が描かれると予告して締めくくられます。
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まとめ
ライト兄弟は大学に行かなかった職人でしたが、家庭で培われた物作りと読書の習慣、自転車屋での成功を土台に、先人のデータを疑い、自ら測り直し、機体の安定性を捨てて操縦で飛ぶという発想で初の有人動力飛行を成し遂げました。
- ライト兄弟は物作りの母と読書を重んじる父のもとで育ち、独学と地道な実験を重ねた
- 自転車屋はオーダーメイドで成功したが、兄弟はビジネスの次の領域として飛行機に挑んだ
- 鳥の観察から生まれたねじれ翼は、左右の揚力を変えて機体を傾ける原理として今も受け継がれている
- 機体の安定性を捨てて操縦で安定を作る発想が、ライトフライヤー1号の飛行を可能にした
- 伝記作家は、偉業の背景に家族ぐるみの深い教養があったと指摘している





