ギリシャ民主政とローマ共和政、決定的に違う「代表」という発想
この回は、前回まで扱った古代ギリシャの民主主義に続き、ローマの政治システムを取り上げます。樋口さんは、古代ギリシャについて「揺れ動きはあったものの、ずっと民主主義を貫いていた」という印象を振り返ります。
深井さんによると、ギリシャの民主政がなくなった後、ローマでは共和政と呼ばれる仕組みが生まれます。ローマが滅んだ後も、イタリアの地では共和政が一時的に行われました。これが、この回で扱う歴史の大まかな流れです。
深井さんは、ギリシャの民主政とローマの共和政の違いを一言でまとめます。ギリシャの民主政は、女性と奴隷を除く市民の全員参加でした。一方、ローマの共和政は、選ばれた人たちの合議による政治で、ここで「代表制」という概念が生まれています。
市民(女性・奴隷以外)の全員参加。代表制という概念がない
選ばれた人たちの合議による政治。誰かの代表として誰かが出て決める
深井さんは、この代表という概念がとても重要だと強調します。現代の日本でも、選挙で選ばれた代議士が集まって議論する形を、民主主義の当たり前の姿として受け取っているからです。
当たり前に代表という概念を我々使ってますけど、そもそも人は自分以外の誰かによって代表できるのかどうかっていう議論がめちゃくちゃなされてるんですよ、歴史上。
深井さんによれば、代表制の成り立ちと民主主義の成り立ちは、まったく別のものです。今の民主主義の直接のルーツは社会契約説 ── 国家や政治権力は、人々の合意(契約)によって成り立つとする考え方。17〜18世紀のヨーロッパで、ホッブズ、ロック、ルソーらが論じました以降にあり、そこへ別のルーツを持つ代表制が途中でくっついたにすぎないといいます。
深井さんは、ローマを「民主主義ではないけれど代表制を使っている国」の一例として位置づけます。楊さんはこの関係を、身近なたとえに置き換えました。
民主主義というシステムが後々になって代表制というアプリを取り入れたみたいな、そんなイメージかもしれないですね。
レスパブリカは、なぜ民主制への「カウンター」だったのか
ローマは、アテナイやスパルタと同じく小さな都市国家(ポリス)として始まりました。最初は王政でしたが、第7代の王とその息子たちが追放され、選ばれた人間による政治、つまり元老院による共和政へ移行します。
このとき用いられた言葉が「レスパブリカ」です。深井さんによると、ラテン語で「公共の事柄」を意味し、英語のリパブリック(共和国)の語源になりました。国家は市民にとって公共のものであり、王の私的利益のためのものではない、という理念が込められているといいます。
樋口さんは、この理念だけを聞くと民主主義と言えなくもないと感じます。深井さんも、民主主義っぽいと言おうと思えば言えると認めます。ただし、ギリシャもローマも、今の民主主義とは決定的に違う点があり、その違いは社会契約説の中で説明されるそうです。
深井さんによると、共和政は実は民主制を批判する原理として強調されたものでした。ローマ人は近くのギリシャの政治体制を知っていて、市民全員参加の民主制を見て「あれはないわ」と感じ、レスパブリカを掲げたといいます。
ローマ人の目には、アテナイやスパルタは多数者の利益が支配する体制に映っていました。これに対して共和政は、公共の利益が支配する体制だという感覚です。深井さんは、多数決の弱点を数字で説明します。
(例えば)25パーセントの意見と、他全部5パーセントずつで決まったとするじゃん。25パーセントが多数決で勝つんだけど、25パーセントってさ、公共の利益代表してるんですか?って話になるわけですよね。
深井さんは、ローマ人の公共性の精神を示す例として、ハンニバルとの戦いの時代にディクタトール ── 古代ローマの独裁官。非常時に一人に強い権限を与える役職で、本来は任期が短く限られていましたを務めたファビウス・マクシムスを挙げます。疑いをかけられたとき、ファビウスは自分の土地を返還していたといいます。
当時のローマ人にとって、多数者とは貧しい人々のことでした。民主主義は「多数者の横暴」や「貧しい人々が公共性を無視して欲望を追求すること」として理解されていたと、深井さんは説明します。フランス革命までは、このポピュリズム的な理解のほうが標準だったそうです。
民主主義って侮蔑的な言葉だった時代の方が長いんですよ。
今の感覚でいうと、例えば民主主義の国の人たちが、独裁制ってちょっとダサいよね、ダメだよねみたいな、そんな感覚を昔の人たちは民主主義に対して抱いてたのかもしれないですね。
君主制・貴族制・民主制を混ぜたローマの仕組み
深井さんによると、古代ローマの共和政には、君主制、貴族制(寡頭制)、民主制のすべての要素が入っていました。それぞれが牽制し合うことで政治腐敗を防いでおり、一時期は本当にうまく機能しているように見えたといいます。この仕組みを理論化したのが、ギリシャ出身の歴史家ポリビオス ── 紀元前2世紀のギリシャ出身の歴史家。ローマの興隆を記録し、君主政・貴族政・民主政を組み合わせた「混合政体」としてローマの強さを説明しましたです。
ローマ共和政で3つの要素を担っていた機関は、それぞれ次のように整理できます。
| 機関 | 対応する要素 | 特徴 |
|---|---|---|
| コンスル(執政官) | 君主制 | 強大な権力を持ち戦争も率いるが、2人選ばれ任期が短い |
| 元老院 | 貴族制・寡頭制 | 議会のような機関 |
| 民会 | 民主制 | 市民が参加する会議 |
コンスルは大体のことを決められ、戦争では将軍になる強い存在でした。深井さんは、権力が集中していても、期間が短く、2人が牽制し合う点に工夫があったと説明します。楊さんも、カエサルの回で見たコンスルの仕組みを思い出して感心していました。
カエサルの時も一人に集中しないように、どんどんどんどんコンスルが変わるとか、そういうシステムが結構あって、すげえなと思った記憶がある。
うまくいっていたローマ共和政は、なぜ帝政へ移ったのか
深井さんによると、ローマの共和政はやがて崩れていきます。内側では、元老院議員などの上流層が土地を多く持つ一方で、資産を持たない市民が増え、貧富の格差が広がりました。グラックス兄弟 ── 紀元前2世紀のローマの政治家兄弟。土地を持たない平民のための農地改革を試みましたが、元老院の反発にあい、いずれも非業の死を遂げましたが平民のための改革に挑みますが、うまくいきませんでした。
外側では、ローマの勢力がどんどん拡大していきます。各地に市民を送り込んだり、属領の住民に投票権のない市民権を与えたりしました。深井さんは、内と外の両方が変化したことで、それまで回っていたシステムが機能しなくなったと説明します。
そこで登場したのがカエサルです。カエサルは独裁官ディクタトールになり、本来は非常に短い任期を延ばすことに成功しました。任期の定まらないディクタトールは事実上の皇帝となり、ローマは皇帝制へ移行していきます。
格差の拡大
上流層が土地を独占し、資産のない市民が増える
領土の拡大
市民の送り込みや属領への市民権付与で、社会の構造が変わる
システムの機能不全
それまでうまく回っていた共和政が回らなくなる
カエサルの登場
独裁官となり任期を延ばし、事実上の皇帝になる
帝政へ
皇帝制に移行し、のちに滅亡へ向かう
帝政の初期にはアウグストゥスや五賢帝のような優秀な皇帝が続きました。しかしその後に愚かな皇帝が現れ、ローマはグダグダになって滅亡に向かったと、深井さんはまとめます。
君主制ってね、ほんといい時いいんだけどね、ダメな時どんどんダメになるからね。ほんと永続性がないんですよね。
中世イタリアに現れた都市国家「コムーネ」とは?
深井さんによると、ギリシャはアレクサンドロスに統治され、ローマも帝政に移ったことで、世界で民主主義をやっている人はいない状態になります。そうした中で、中世イタリアに少しだけ共和政を行う人たちが現れました。
ローマ帝国がゲルマン人によって崩壊すると、イタリア半島はゲルマン人のランゴバルト王国と、東ローマ帝国の末裔であるビザンツ帝国に支配されます。そして11世紀頃から、北部・中部イタリアでフィレンツェやベネチアなどの都市国家が発展していきます。
中世イタリアの都市国家は、ポリスではなくコムーネ ── 中世イタリアの自治都市。もとは「みんなのもの」という意味で、のちに「共同体」を指す言葉になったと番組では説明されていますと呼ばれました。貨幣経済の発展を背景に、都市貴族が封建領主と戦って自治権を獲得したことで勃興したといいます。
深井さんは、この流れを噛み砕いて説明します。ローマ帝国崩壊後のヨーロッパは、強い王がいない「王様とお姫様」のような世界でした。経済力をつけて王より強くなった貴族たちが自治権を奪い、貿易に強いベネチアやジェノヴァ、フィレンツェなどが都市国家として成り立ったといいます。
深井さんによると、12世紀末のイタリアには、こうしたコムーネが200〜300個ぐらいあったそうです。今でもイタリアの人が「自分はミラノ人だ」「ピサ人だ」と言うのは、この時代の文化を継承しているからだと説明します。樋口さんは、これを日本の「黒田藩だ」という感覚に重ねていました。
900年代にドイツ周辺で神聖ローマ帝国が成立し、その王が北部イタリアに攻め入ろうとします。北部イタリアのコムーネはロンバルディア同盟 ── 12世紀に北イタリアの諸都市が結成した同盟。神聖ローマ皇帝の支配に対抗し、戦いに勝って自治を認めさせましたを結成して戦い、勝利しました。これにより、コムーネは長い間自治権を保つことに成功したといいます。
コンソリの派閥争いから、「プロ経営者」のようなポデスタ制へ
深井さんによると、コムーネの中核を担ったのは中下級の都市貴族でした。都市貴族たちは評議会を構成し、貴族の中から12人を選んで送り込みます。この12人は「コンソリ」と呼ばれ、行政・外交・軍事を担う寡頭政治を行いました。樋口さんは、ローマのコンスルと語源が同じらしい点に反応しています。
しかし、コンソリの体制はやがて揺らぎます。12人が何々派に分かれて党派争いを始め、みんなのためになることさえ決められない混乱に陥ったのです。樋口さんと深井さんは、以前の回で扱ったダレイオスの指摘どおりになったと話します。
コンソリの混乱への対策として採用されたのが、ポデスタ制です。12人では多すぎて派閥争いになるので、執政官を「ポデスタ」1人にしました。さらに、12人から選べばまた争いになるため、利害関係のない外国人を選ぶことにしたといいます。
(外国人のポデスタは)社外取締役がいた方がいいみたいなのも、あれか。
深井さんが紹介したポデスタ制の概要によると、ポデスタは任期が半年から2年で、コムーネの市議会によって選ばれました。任期終了後には、法令を守って公正に統治したかが審査されます。深井さんは、この点がアテネにあった仕組みと同じだと指摘しています。
一方で、ポデスタの権限はとても広いものでした。有能で評判の高いポデスタは、いくつもの都市を渡り歩いて職を歴任したそうです。深井さんは、この働き方を「プロ経営者」のようだとたとえ、政治のプロフェッショナルがここで生まれたと説明します。
平民「ポポロ」の台頭と、繰り返される再現性
深井さんによると、コムーネの内部ではやがて平民が台頭してきます。この平民を「ポポロ」と呼び、樋口さんたちはゲーム『ポポロクロイス』の名前を思い出して盛り上がりました。
ポポロは都市を支配する旧来の貴族と対決し、自分たちの組織「アルテ」を持つようになりました。アルテの最高委員は「プリオーリ」と呼ばれたそうです。当時の言葉でまとめると、コムーネでポポロが台頭し、アルテを作り、プリオーリが出てきた、という流れになります。
コンソリ
中下級の都市貴族から12人を選んで寡頭政治を行う
党派争い
12人が派閥に分かれて争い、何も決められなくなる
ポデスタ制
利害のない外国人1人を執政官に選ぶ
ポポロの台頭
平民が組織アルテを作り、貴族に対抗する
深井さんは、新しい名称がたくさん出てくること自体を、ひとつの変化として捉えることが大事だと話します。ラベルが生まれたということは、新しいアクターが歴史に登場したということだからです。
深井さんは、平民が台頭して新しい機関を作る流れが、古代ギリシャやローマで起きたことにそっくりだと指摘します。ギリシャでは500人評議会が作られ、ローマでも新しい勢力が権力を握っていきました。
一部の人間だけでその国を統治し続けるっていうのは、こういう理由で無理なんでしょうね、おそらくね。
コムーネは民主主義だったのか?「利害調整」の限界
深井さんによると、ポポロの台頭によって、ギリシャのような人民の政治参加と責任追及の仕組みが、イタリア半島で復活しかける瞬間がありました。結局は復活しなかったものの、世界史的には「おっ」となる瞬間だったといいます。
実際にこの時期のイタリアでは、古代ギリシャやローマの哲学・政治学への関心が高まりました。イスラム世界から逆輸入されたアリストテレスの考えなどを背景に、マキャベリも登場します。古典を再解釈して読み直すこの営みは人文主義 ── 古代ギリシャ・ローマの古典を研究し直し、人間の生き方や社会を考え直そうとする知的運動。14〜16世紀のイタリアを中心に広まりましたと呼ばれ、のちのルネサンスにつながっていきます。
では、コムーネは民主主義的だったのでしょうか。深井さんによると、王政でも君主制でも寡頭制でもない点では民主主義に近づいていました。平民の組織アルテは、実際に代表者を政府に送り込んでいたそうです。
それでもアルテやポデスタは、複数の集団が代表を通じて利害を調整していただけだと評価されています。深井さんは、宇野先生の本を引きながら、この評価の意味を強調しました。
深井さんは、今の日本の議会政治にも、ただ利害調整をしている政治家はたくさんいるだろうと話します。深井さんの見方では、ギリシャは十部族制 ── アテネのクレイステネスが導入した制度。血縁や地縁の結びつきを崩すために、住民を新しい区分に編成し直しましたでデーモスを組み直し、こうした利害代表型の政治をさせないようにしていました。ギリシャには、公共のために尽くすべきだという感覚がすでにあったといいます。
樋口さんは、民主主義の定義を持っていなかった自分にとって、ひとつ定義ができたと話します。深井さんは、地元の利害を議会に届けることは必ずしも間違いではないと前置きしたうえで、次のように説明しました。
(利害調整は)必ずしも別に間違ってはないと思いますが、それだけではないってことです、民主主義は。
それ(利害調整)は最終目的ではないってことだよね。
コムーネも独裁へ、同じ失敗を繰り返さないために
深井さんによると、コムーネでは都市内部の党派争いが避けられず、混乱が続きました。最終的には、メディチ家などの有力な貴族が独裁を敷くシニョーリア制 ── 中世後期のイタリア都市で成立した、一人の有力者や一族が実権を握る支配体制。フィレンツェのメディチ家が代表例ですが成立し、コムーネは自己解体して領地になっていきます。
深井さんは、コムーネで起きたことをこう整理します。平等に話し合うと何も決まらず、それぞれが利害を主張して党派争いになります。すると、決められる人や力の強い人に権力が移ってしまうのです。これは、ダレイオスやアリストテレスがすでに指摘していたことでした。
ずっと繰り返してる感覚があるです。僕ずっと聞いてて。独裁して壊れて、みんなでやることになって、またなんか(権力が)生まれて。
坂の上から石が転がり落ちながら、その欠けたところが埋まったと思ったら違うところが欠けていったみたいな、そんなイメージですね。
深井さんは、こうした繰り返しを知っておくことが大事だと話します。今の批判や現象の多くは、すでに過去に経験されています。深井さんは個人的な意見として、その試行錯誤の結果を踏まえ、積み上げ型で次の世界を考える必要があると述べました。
次回は、西ヨーロッパで生まれた議会がテーマです。深井さんは、現代の議会の直接のルーツはイギリス議会だろうと述べ、それがどのような経緯で生まれたのかを次回に語ると予告しました。
まとめ
今回のエピソードでは、ローマの共和政とイタリア中世のコムーネを通じて、代表制と民主主義が別のルーツを持つことが語られました。ローマの共和政は、多数決による民主制を批判する「公共の利益」の理念から生まれています。一方、コムーネの経験は、利害調整だけでは民主主義にならないことを示しています。
- 代表制と民主主義は成り立ちがまったく別で、代表制は途中で民主主義に取り入れられたもの
- ローマのレスパブリカは、多数者の利益の支配を批判し、公共の利益を掲げた
- ローマは君主制・貴族制・民主制を混ぜて牽制させたが、格差と拡大で崩れ帝政に移った
- 中世イタリアのコムーネは、コンソリ、ポデスタ制、ポポロの台頭を経て、最終的に独裁へ向かった
- 利害調整だけの代表制は民主主義的ではなく、歴史の繰り返しを知ったうえで次を考える必要がある





