自己紹介が苦手な2人と、逆転したゲスト回
この回は、ゲストのシュウさんが自分の番組で語り足りなかったことを、オカジュンの番組に持ち込んで話すという逆転した構成で始まります。
(シュウさんに)実は一人語りの番組じゃないんですよ、って言ったら、「え?え?」って。
いやー嬉しいです。人生をポッドキャストに全振りして、いわゆる雇われをやめてっていう生き方を、実験的にやってる人間です。
シュウさんは自身のポッドキャスト「シュウの放すラジオ」について、雇われずに生きる実験をしている人間だと自己紹介します。
自己紹介が一番苦手だというシュウさんに、オカジュンも「私もです」と応じ、2人の距離が近いことがうかがえます。
「皮膚が硬い感じ」――初対面で受けた印象
シュウさんは前回旅の途中でオカジュンと会ったときの印象を語ります。オカジュンが相手に迷惑をかけまいと気を使う姿勢が、最初から固まっている感じがしたと言います。
そういう気遣いがベースに動かれてるのはめちゃめちゃ伝わってきたんですけど。それがすごいがっちり固まってる感を最初から受けたんですよ。
硬い感じが。あの、皮膚が硬いみたいな感じっていうの?
この「皮膚が硬い」という表現は、オカジュンが相手の視線を伺って動くというより、自分で構築した行動の指針で力強く動いているように見えた、という意味です。
その場でこっちの視線とかを見て大丈夫かなって伺うみたいな雰囲気じゃなくて。自分で構築した指針で動いてる。
無邪気さと、迷惑をかけまいとする矛盾
シュウさんが面白いと感じたのは、オカジュンの行動の指針が「迷惑をかけちゃいけない」という気遣いをベースにしているのに、その動きに力強さがあり、周りが止めようがない点でした。
ベースは相手を気遣っているのに、その力強さがすごいんですよ、その動きの。
どう行動しても悪意がないことが相手にももろに伝わっちゃうタイプ。
シュウさんは、それを計算でやっていたら感じないもので、本人がわかっていないところがミソだと指摘します。無邪気さゆえに人に好かれてきたのだろう、と読み取ります。
オカジュン自身は、出会う人に感じよくしたいという気持ちを、自分にとっては楽なものだと説明します。ただ、それを「生きづらくない?」と言われることもあると話します。
気使いたいから使ってるのに自由じゃん、って思ってる。
一方で、その気遣いが結局うまく気を使えていないことも、オカジュンは自覚していると認めます。ここに、この回を通じて出てくる「わかったつもり」と「その先」のテーマが早くも顔を出します。
「舞い上がりがち」――どうしようもない自分の性質
シュウさんは、自分にも似た「どうしようもない性質」があると、元奥さんから言われたエピソードを持ち出します。自宅で餅つき大会などを開くと、人と会えるのが嬉しくて舞い上がってしまうと言います。
そうすると僕がいろんな人と会えるのが嬉しくって、こう舞い上がっちゃうんですよね、割と。
その舞い上がって嬉しそうにしてるその表情が、めちゃくちゃムカつくんだよねみたいなこと言われてて。
シュウさんは、これを言われる側にはどうしようもないと感じたと振り返ります。関係性が近くなるほどこうした反応は出やすく、避けようがないと考えています。
関係性が近くなればなるほど、こういうとこムカつくみたいなのってよく出る、その代表例だとは思ってるんですけど。
珍しい人が来てくれたからこそ舞い上がるのであり、その場にいる関係の長い人が腹を立てるのも避けられない。だから「そういうことは起こる」と思っておくしかない、というのがシュウさんの結論です。
だからもうそういうことは起こるって思っとくしかできないかなって思います。
オカジュンは、最近は「どうせもうすぐ死ぬしな」とよく思うと明かします。人生は短いからこそ、その場を感じよく楽しく過ごしたいという感覚があると語ります。
最近はもう全て、どうせもうすぐ死ぬしなって、よく思うんですよ。
マクロでもミクロでも――ベクトルの向きだけを気にする
オカジュンは、シュウさんがトモキさんとの対談で相手に「そうかもしれない」と言わせていた点を挙げ、発信の軸が自分のものになっていると感じたと伝えます。
シュウさんは、自分は一生懸命生きているだけだと応じつつ、極小のことでも極大のことでも同じ法則があれば結びつけて考える癖があると説明します。
大きなマクロでもミクロでものものでも、同じ法則があったら、これとこれを同じみたいにして紐付けて考える癖があるから。
シュウさんが気にしているのは、自分がどういう向きで生きているかという「ベクトルの向き」だけだと言います。自分が死ぬまで地球が持てばいい、という発想は自分にはないと話します。
どういう風な向きで生きてるかみたいな、そのベクトルの向きだけ気にしてるから。
遠くの人は応援し、近くの人は批判する
オカジュンは、人は遠いところで頑張る人を応援するのに、身近になると批判してしまうという現象を話します。歴史上の人物への好意的な見方を例に挙げます。
オカジュン自身、大学時代に女性が入れないとされていた場に入った経験があり、パイオニアの先輩がすぐ近くにいるタイミングだったと明かします。
その当時の、なんで女性がみたいなやつとかを、すごく浴びたし。
遠い人の話では「頑張れ」と言うのに、身近な人や現代の話の中では批判してしまう。オカジュンは、このねじれをどこかで書きたかったと語ります。
身近なことになると同じことなはずなのに、壮大な話とかでは頑張れって言うけど、身近な人とかだったり、ごく現代に落とし込むと批判しちゃってること、めちゃくちゃあるなと思ってて。
シュウさんも、複数人でやる番組「続ご愁傷ラジオ」で「曼荼羅みたいなもの」を作りたいと語り、自分の中の整合性の取れた世界を、死ぬまでに残したいという欲求があると話します。
僕の中では整合性の取れてる世界があって、それをやっぱ死ぬまでになんとかして、こういう感じだったんだよって残したい欲求があって。
ゲーム感覚ならOK――競争を否定しない生き方
シュウさんは、自分の生き方を競争や勝ち負け、奪い合いとして捉えると、人類全体があまり良くない方向に向かうという感覚があると語ります。
ただし、競争したい、勝ったら嬉しいという気持ちを全否定したいわけではないと言います。その気持ちは自分の中にもあり、ゲームが楽しいのもそのためだからです。
ゲーム感覚だったらOKって思ってるっていう感じ。
シュウさんの考えでは、ゲームには終わりがあり、その時間は楽しむために確保されています。問題は、ゲームが終わったのに勝ち負けがずっと人生に響いてしまうことだと指摘します。
だから勝ち負けの要素を消したいのではなく、その瞬間を楽しんだ後は一旦リセットする。そうした区別を分かった上で動いたほうがいい、というのがシュウさんの立場です。
「空気椅子」の本当の意味とシュウさんの暮らし
オカジュンは、シュウさんの言う「空気椅子」を、頼まれてもないのに自分から苦しいことをやっている、という意味だと理解していました。しかしそれは勘違いでした。
空気椅子は、もうアウトプットが先の社会がもう来た想定みたいな。
シュウさんの言う「空気椅子」とは、アウトプットが先に立つ社会にはあるだろう椅子に、まだ実在しないのに先に座って動いている、という意味でした。筋トレの空気椅子とは違う比喩です。
僕はそういうそこに座れるっていう想定で動いてるみたいな。
暮らしぶりも具体的です。シュウさんは水道を解約しており、引きたくても引けない状況を自らつくっています。
- 水道は解約済みで、光熱費は電気だけを残している
- 台所のプロパンガスも止め、カセットコンロやホームかまどで煮炊きする
- 食事は野菜と肉の味噌汁にご飯を入れたおじやが基本で、庭の食べられる草も入れる
- 洗濯機は友達に譲り、冬は2か月に一回ほどコインランドリーを使う
冬の洗濯は1回400円ほどで、水道の基本料を払い続けるよりだいぶ安く済んでいる、とシュウさんは説明します。
お金じゃない方がいい?――端折られた文脈
オカジュンは、アウトプットが先という生き方なら、応援するとしてもお金じゃない方がいいのでは、と素朴な疑問を投げかけます。
(オカジュンからシュウさんへ)お金を渡しちゃいけない人にお金を渡す、むしろお金じゃない方がいいの?
シュウさんの答えは、その問いの立て方には途中の文脈が全部端折られている、というものでした。お金がなくても回る社会は何千年後か分からず、それを今やってほしいという話ではないからです。
それがね、その時点でね、すっごい端折られてるんですよ、文脈が、実は。
シュウさんは、自分が生きるための固定費がかかり続けている今、稼がずにやっているため、その固定費を賄うための窓口として継続の形を設けている、と説明します。それはそのままの意味だと言います。
一方で、シュウさんが思い描く世界の形とは今はまだ全然違う。だから「空気椅子」なのだ、という整理です。
自分が思い描いてる世界の形っていうのは今はまだ全然違う。だから空気椅子になってるっていう。
さらにシュウさんは、その生き方をしていない人が「じゃあお金じゃなくて物でね」と部分だけ切り取ると、逆に「何も伝わってないな」と感じると言います。同じ考えを持つ人が家を提供してくれるような、実質的に固定費が減る動きなら大歓迎だと補足します。
記号じゃなく、本当の意味を理解して、実質僕の固定費が減るための動きを、リアルな動きでサポートしてくれるみたいなのがあったら、それは大歓迎ですよ。
実体ではなく関係性――右と左のたとえ
シュウさんは、コテンラジオの龍源さんゲスト回を繰り返し聴いていると話し、仏教哲学の「関係性の哲学」に触れます。右と左のたとえで空の概念を説明します。
右っていう概念は左がないと成り立たない。逆もまたしかりって思うと、右が右として単体として実体であるわけじゃないみたいな。
シュウさんは、今の世の中の人はこれをほとんど理解せずに、実体があるという前提のルールで動いていると見ています。お金もまた、実体があると思い込まれているものの代表だと言います。
知ってる何かに当てはめたがる人間たち
シュウさんは、人は情報の端だけを受け取ると、まず自分の知っている何かに当てはめると指摘します。お金を使わない生活の情報だけなら「自給自足ね」と一刀両断されがちだと言います。
まずは自分が知ってる何かに当てはめるんですよね。
そしてそうじゃないと分かっていったとしても、人はいちいち知っている何かに当てはめてしまう。オカジュンも、理解のコストがかからない方をやりがちだと応じます。
理解のコストがかからない方をやりがち。
シュウさんは、龍源さんゲスト回で出た予測に関する話にも触れ、脳は予測したがるという性質から、自分の生き方も勝手に予想されると感じていると語ります。
考えない人?――「やってるかやってないか」だけ
シュウさんは、この会話で自分がオカジュンに話を引き出されていることに気づき、人たらしぶりに感心します。オカジュンは、自分には中身がなく本当にバカなのだと返します。
スポーツとかしてても言われます。考えない人だよねって。
オカジュンは、洞察力がないことが人に警戒心を抱かせず、カウンセラーとして子どもたちに良いのかもしれないと自己分析します。そのうえで、シュウさんに人生哲学があるのが羨ましいと伝えます。
シュウさんは、自分ができることは特別ではなく、勉強もお金稼ぎもせず「何もしない」方向に何年も進んできただけだと言います。だから誰にでもできることだと考えています。
僕ができることって特別なことではないから。やってるかやってないかだけなんですよ。
さらにシュウさんは、みんな自分と向き合ったらいいのに、という思いが「アウトプットが先」に含まれていると明かします。自分の中から出てくるものをどう掘り出して出すか、その方が先だという意味です。
自分の中に正解がある――誰かに答えを聞いていた
オカジュンは、雇われをやめて文章を書き、投げ銭をもらえるようになったら、それは「アウトプットが先」になるのか、とシュウさんに尋ねます。
シュウさんは、その問いは表面上の状況や形の説明であって、それがオカジュンにとって満足度の高い位置かどうかは自分には判断できない、と答えます。
それがオカジュンさんにとっての満足度の高い位置なのかどうかは、僕には判断つかないんですよね。
この一言で、オカジュンは自分が「教祖」に答えを聞くようにしていたことに気づきます。人のことなら良くないと分かるのに、自分のことになるとやってしまうと省みます。
そう、それが良くないことはすごく人のこととかではわかるのに、やっぱ自分のことになると。
シュウさんは、正解は外にあるとみんな思っているが、逆に正解は自分の中にしかない、誰の中にも必ずあると語ります。この回の核心が、ここで言葉になります。
シュウさんは、先生が正解を教え、正解した人が褒められるルーチンの中で育てられたからだと補足します。自分自身も、人に対して同じことをしているかもしれないと認めます。
「わかった」と「共感した」は分けられる
シュウさんは、この会話でオカジュンが何度か「わかってないな」と言うのが印象的だったと話します。そのうえで、最近気づいたことを打ち明けます。
分かったっていうのと共感したっていうのが、分けられるんだっていうこと、最近気づかされて。
「わかった」と言うと共感したと受け取る人がいる。しかし意味が分かったという時も「わかった」でいい、と2人の理解が重なります。
分かったけど私は従わないよってことがあるってこと。
シュウさんは、共感ではなく意味が分かっただけなら、それがその人の人生に反映されないのは何の不思議もない、と整理します。人は結局、自分なりの動きにしかならないからです。
シュウさんは、オカジュンの「今はできないけど」をベクトルの話として捉えたなら、オカジュンなりの花開き方をする気がするし、それが一番嬉しいと締めくくります。
編集して気づいた、「わかった!」のその先
最後は、オカジュンの一人語りです。ChatGPTに容赦なくいじってもらったところ、印象的な言葉を返されたと明かします。
オカジュンさんって、走りながら考えると言って走り出した結果、考えるべきことを沿道に全部置き去りにしてる人って言われました。
この収録は実は2時間半ほどあり、短く編集する都合で急に納得しているように見える箇所もあるが、本当はもっと長くやりとりしていた、とオカジュンは説明します。
さらにオカジュンは、この対談を編集していると面白いことが起きたと語ります。自分ではない、別の人間のカウンセリングをしているような気分になったと言います。
編集しながら自分のことを聞き直すと、あなた本当はここまで言いたかったんじゃない?とか、本当に聞きたかったのってそこだったんじゃないよね、とか。
収録中の自分にはまだ自覚できていなかった思いを、後から聞き直して気づいてあげられた。オカジュンはそれを、自分を慰めるような気持ちだったと振り返ります。
そして、分かったと言ったその後にもまだ続きがある、というのがこの回でオカジュンが持ち帰ったことでした。人のことも自分のことも、一回分かったで閉じなくていいという気づきです。
この対談の後、オカジュンは臨床心理の学会に参加しました。内容は個人情報のため話せないものの、その場で心にどんな景色が見えたかは次回話せそうだと予告します。
夏休みの児童相談所やシェルターは満員で、オカジュンの仕事も夏休み明けから忙しくなったといいます。そんな今だから思うことも含めて、次回は学会で見た心の風景を語る予定です。
まとめ
この回は、「アウトプットが先」の生き方を語るシュウさんと、それを聞きながら「わかった」の意味を問い直すオカジュンの対話でした。空気椅子や関係性の哲学といった言葉を通して、正解を外に求めず自分の中を掘る、という共通の視点が浮かび上がります。
- シュウさんの「空気椅子」は、アウトプットが先に立つ社会にまだない椅子に、先に座って動いているという意味だった
- 競争や勝ち負けはゲームとして楽しめばよく、終わった後まで人生に響かせないことをシュウさんは重視している
- 正解は外にあると思われがちだが、シュウさんは正解は誰の中にも必ずある、と語る
- 「わかった」と「共感した」は分けられ、意味が分かってもその人なりの動きにしかならない
- オカジュンは編集で聞き直すことで、収録時には自覚できなかった思いに気づき、「一回わかったで閉じなくていい」と持ち帰った






