グラフィーの先生からDリーガーへ、急な挑戦の報告
MaRinさんは、Dリーガーになる前、グラフィーでジャズクラスを担当していました。グラフィーを離れたのは2年ちょっと前で、Dリーガーとして2年目を迎えているタイミングだといいます。
PUNCHしょーへーさんの記憶では、当時のMaRinさんからの連絡は「Dリーグに挑戦したいです」「オーディションが来月ぐらいにあって、合格したらもう行かなきゃいけない」という、意外なほど軽いトーンだったそうです。
MaRinさんによると、合格通知から1か月もないうちにリハーサルが始まるほどスケジュールがタイトでした。そのため、合否が出る前にスクールへ伝える必要があったといいます。
もう自分にプレッシャーかけまくるつもりで、ちょっと(Dリーグに)挑戦してますみたいな連絡させてもらいました。
PUNCHしょーへーさんは、若い先生がコンテストやバトルに挑む姿は見てきたものの、Dリーグに挑む人が出てきたことに驚きつつ、素直に嬉しかったと振り返ります。MaRinさんがグラフィーを訪れるのは、最後のレッスン以来とのことです。
ディズニーのパレードが原点だった?
MaRinさんは、小さい頃からテレビを見て真似して踊る子どもでした。ダンスを始める直接のきっかけになったのは、大好きなディズニーでの体験です。
当時のディズニーのパレードは、小さな子どもがダンサーの横で一緒に踊れる体験型のものだったそうです。MaRinさんは自分から前に出て、ダンサーを横目で見ながらずっと踊っていたといいます。
なんかそれがきっかけで、そのディズニーダンサーになりたいっていうのからダンスを始めました。
MaRinさんは関西出身で、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンではなくディズニーだった点をPUNCHしょーへーさんは意外がります。MaRinさんによれば、懸賞でたまたまミラコスタ ── 東京ディズニーシー内にあるディズニーホテル「東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ」の略称の宿泊が当たり、家族で行ったことでハマったそうです。
11歳でチーム結成、ハッサンさんとの出会い
MaRinさんは大阪の近所のスタジオでダンスを始め、兵庫に引っ越してからは友人の紹介で続けていました。転機は中学生の頃、ジャグジーのハッサンさんのレッスンに通い始めたことです。
レッスンに通い始めて3回目ほどで、MaRinさんはハッサンさんから「レジェンド東京」のオーディションを勧められます。何もわからないまま受けたところ合格し、ジャグジーのちびっ子役3人の1人に選ばれました。
でもそっからその三人でチーム活動を始めてみたいな感じで。ディズニーダンサーはどこ行ったんやっていう感じなんですけど。
MaRinさんはその後、BIGBANGのバックダンサーにも憧れたそうです。それも叶わないまま、なんとなく始めたコンテストへの挑戦が、そのまま自分のダンスの道になっていったといいます。
チームを組んだのは11歳のときです。ハッサンさんのプロデュースで3人のチームから始まり、その後は大人数のチームでも踊ってきました。
父の撮るコンテスト映像で研究した10代
兵庫に来てからのMaRinさんは、ジャズだけでなくHIPHOPも習っていました。さらに独特だったのが、コンテストの映像から他ジャンルを独学していた点です。
コンテスト出るようになってから、お父さんがめっちゃコンテストの他のチームのビデオを撮ってくれるんですよ。もうほとんど全チーム。
だからそれを見て真似して覚えてみたいな。してたんで。
MaRinさんは、ハウスや経験のないジャンルのダンスも、映像を見て真似していたといいます。習いに行くのではなく、ライバルチームを研究して自分で練習するスタイルを、PUNCHしょーへーさんは「珍しいタイプ」と面白がります。
短大のダンスコースで進路を模索
MaRinさんは高校卒業後、短大のダンスコースに進みました。ただ、そこで将来の道が決まっていたわけではありません。
MaRinさんによると、テーマパークダンサーに必要なバレエも経験がなく、ダンスは好きでも、どう仕事にして生きていくかがまだ明確ではない時期でした。
いろんな経験して、ダンスもそうやし、ダンス以外の知識も自分の中に取り入れて、なんかもう一個明確にしていけたらいいなみたいな気持ちで。
短大は他のコースの学生とも親しく関わる機会が多く、MaRinさんはその環境で視野を広げようとしていたようです。
初めてのインストラクターはグラフィーだった
MaRinさんがグラフィーでレッスンを持ち始めたのは3、4年前、短大2年目の頃です。実はこれが、MaRinさんにとって初めてのインストラクター経験でした。PUNCHしょーへーさんもこの事実を初めて知ったそうです。
経緯は、グラフィーでジャズを教えていたあゆ先生が出産のタイミングでレッスンを離れることになり、後任として紹介されたのがMaRinさんだったというものです。あゆ先生は、ハッサンさんのレッスンに通う先輩で、MaRinさんは進路の相談もしていた間柄でした。
もうバチバチ緊張すぎて、もうなんかストレッチの曲どうしようみたいな。
生徒には子どもが多く、MaRinさんはどう伝えれば理解しやすいかに悩んだといいます。
なんかボックス一個教えるだけでこんなに難しいんやとか、なんか最初はほんまに私の方が勉強させられたというか。
PUNCHしょーへーさんも、自分にスキルがあっても教えるのは難しかったと共感します。ダンスの入り口に立ったばかりの人に難しいことを伝えても楽しくなくなってしまう一方、教える側には「伝えたい欲」があり、その間のギャップに最初は戸惑ったと話しています。
TERUPOPアカデミーとチーム「オーブ」
この時期のMaRinさんは、グラフィーホールの舞台公演「プレイヤー」で主役も務めています。短大卒業後はTERUPOPさんのアカデミーに1年間通いました。
そのアカデミーでアシスタントをしていたジャズダンサーのアヤカさんと出会い、2人で「オーブ」というチームを組みます。当時チーム活動をしておらず、漠然とJDD ── JAPAN DANCE DELIGHTの略。1990年代から続く日本の代表的なダンスコンテストで、ファイナルの舞台は多くのダンサーの目標とされていますのステージに立ちたいと思っていたMaRinさんに、アヤカさんが声をかけたそうです。
(アヤカさんが)「チームしーひん?」って言ってくれて。で、もうそっからJDDのファイナルのステージ目指して、二人でチーム活動して。
オーブでは毎月のようにコンテストに出場し、並行してTERUさんの舞台にも出演していました。PUNCHしょーへーさんは、コンテスト、舞台での見せるダンス、レッスンの先生という複数の顔を持つ姿が印象的だったと振り返ります。
なぜD.LEAGUEに挑戦しようと思ったのか
MaRinさんがD.LEAGUEを意識したきっかけは、中学時代のコンテストでライバルチームにいたヒナさんが、I'moonの1年目から上京して加入していたことでした。
その後、I'moonのディレクターがミズエさんに変わり、関西のアイセリさんらが加入します。大阪の知っているダンサーが活躍する姿を見て、MaRinさんはさらに興味を持ち、チームのスタイルも大好きだったといいます。
決断を後押ししたのは、オーブの相方であるアヤカさんが上京すると聞いたことでした。東京には前から興味があったものの、具体的なきっかけがなく一歩を踏み出せずにいたそうです。
なんかそこで「うわ、今や」って思って決めましたね。
PUNCHしょーへーさんは、D.LEAGUE発足当初は関東のダンサーが中心という印象だったものの、徐々に関西のダンサーの参加が目立つようになり、アンテナが立っていったのだろうと話します。
ライバルの加入
中学時代のライバル・ヒナさんがI'moonに加入
関西勢の参加
ディレクター交代後、アイセリさんら関西のダンサーが加入
相方の上京
オーブのアヤカさんが東京へ行くことに
決断
「今しかない」と挑戦を決める
オーディションでは何が見られるのか
MaRinさんがオーディションを知ったのは5〜6月ごろで、オーディション自体は6月でした。思い立ってすぐの挑戦だったことがわかります。
オーディションは、動画審査と東京での対面審査の2段階だったといいます。
面接では、なぜここにいるのか、入ってどうなりたいか、自分はどこで活かせるか、特技は何かといったことを聞かれたそうです。PUNCHしょーへーさんは、ダンスそのものより人間性や目指す理由を見るテーマパークの面接に近いと受け止めています。
実技審査ではミズエさんと当時のリーダーのちかさんがレッスン形式で振りを教えてくれ、MaRinさんはひたすら楽しかったといいます。
ちかさんに言われたのは一人だけめっちゃ楽しそうやったなって言われました。なので多分ずっと笑ってたと思います。
PUNCHしょーへーさんは、幼少期からのエピソードも含め、MaRinさんはやりたいからやる、楽しいから楽しむという本能にまっすぐにダンスを続けてきた人だと評しています。
合格から上京、キックオフ前日まで大阪で仕事
合格後、MaRinさんはすぐ東京で暮らす必要がありました。東京のことは本当に知らなかったといいますが、このために上京してくるメンバーは初めてだったのか、会社がさまざまにサポートしてくれ、無事に家も決まったそうです。
でもそのキックオフの前日まで大阪で仕事あったんで、仕事してから東京行って、寝て起きて、そのまま初めてのリハに行くみたいな感じでした。
こうしてMaRinさんのDリーガー生活が始まりました。Dリーガーとしての日々は後編で詳しく語られる予定です。
関西と東京、いちばんの違いは「規模感」
関西時代とDリーガーになってからの一番の違いを聞かれたMaRinさんは、東京の規模感を挙げます。
大阪におった時には知らなかった、新しいことを仕事にしてる人がいたりとか、なんか多様性というか、がすごいあるなと思います。
PUNCHしょーへーさんは、関西のダンスシーンは良くも悪くもギュッとしたコミュニティで、友達の友達をたどれば大体つながると話します。一方で東京は関わる人も市場も大きく、学ぶことが多いと受け止めています。
コミュニティが密で、誰の活動もおおよそ把握でき、友達の友達で大体つながる
規模が大きく、知らなかった仕事をする人に出会える多様性がある
PUNCHしょーへーさんは、多様性の不足は関西の次の課題かもしれないとしつつ、行ってみないとわからないことを経験した人が戻り、関西に還元してくれることに期待を寄せます。
その期待に対して、MaRinさんは「頑張ります」と応えました。後編では、Dリーガーが実際に何をしているのかが語られる予定です。
まとめ
MaRinさんのDリーガーへの道は、ディズニーのパレードへの憧れから始まり、コンテスト、初めての指導、チーム活動を経て、相方の上京という「今しかない」瞬間に一気に動き出しました。オーディションでも楽しさを全身で表した姿勢が、道を開いたのかもしれません。
- ダンスの原点はディズニーのパレードで、11歳からハッサンさんのプロデュースでチーム活動を始めた
- 父が撮ったコンテスト映像を見て、他ジャンルのダンスも真似して覚えていた
- 初めてのインストラクター経験はグラフィーで、子どもに教える難しさから多くを学んだ
- オーディションは動画審査、過去の振りの実技、面接の流れで、実技では一人だけ楽しそうだったと言われた
- 東京で感じた一番の違いは規模感と多様性で、経験を関西に持ち帰ることが期待されている


