死ぬとはどういうことか、人類はまだ知らない?
老いと死の歴史編は全6回で構成され、前回・前々回で老いの歴史を扱ったあと、この回から4回にわたって死の歴史が語られます。楊さんは本題に入る前に、題材がセンシティブであることを断っています。
死が身近にある人とか、身近な人が亡くなってしまって、そこから立ち直っていない人とか、あと自死を考えている人とかは、この話がどっちに作用するか僕わからないなと思ってるので、聞かないでほしいかなっていう気がします。
楊さんによれば、死の歴史の回は死の概念そのものを揺さぶる内容になるといいます。そのうえで楊さんは、この回の結論を先に示しました。
樋口さんは「動かなくなるのが死でしょう」と返します。ところが楊さんは、どこから死んでいてどこまで生きているかについて、科学上も医学上もきちんとした定義は出せていないと説明します。
グラデーションなんですね。急にここから死んでこっから生きじゃなくて、恣意的にそれを定めてるだけなんで。
楊さんは、死体が朽ち果てるまでを「生きている」と考える社会もあると紹介します。現代の日本人が正解で、そうした社会が不正解なのではなく、現代の側も任意に基準を決めているだけだ、というのが楊さんの見立てです。
えー、だってもうドラマとかでよくあるね。ピッピッピがビーになったら何時何分。
心臓が止まったら死んだって、そういうふうにしてるのは我々がそうしてるだけです。しかも医学という領域の中での話。
この回ではこのあと、医学での死の判定の変遷、人間がそもそもなぜ死ぬのか、死を悲しむのは人間だけなのか、といった論点が順に扱われると予告されます。樋口さんは「興味深いけど、怖いな」と率直な感想を漏らしています。
死生学はなぜ日本で3回もブームになったのか
本題の最初は、人間にとって死とは何かという問いです。死は宗教、慣習、文学作品、学問、医療、マスメディアなど、さまざまな分野で語られてきました。それらを総括する学問分野が死生学 ── 死をめぐる思想・文化・医療・倫理などを学際的に扱う学問分野。英語ではデス・スタディーズやサナトロジーと呼ばれますです。
番組の解説によると、死生学は日本で3回のブームを経験しています。最初は19世紀末から20世紀初頭で、日本がヨーロッパ文明と接触し、東アジアの文化圏にはない生き方や死に方を知ったことがきっかけでした。
2回目は第二次世界大戦中です。若者に死への覚悟を持たせるため、死生観が「死にがい付与システム」のように使われたと説明されています。
3回目は年代後半から現代までで、背景には病院死の一般化があります。かつては家族に看取られて畳の上で死ぬのが普通でしたが、病院で死ぬようになり、医療技術の進歩で寿命も延び、死が日常から引き離されていきました。
解説では、現代の日本では死がかなり隠蔽された存在になっていると語られます。葬式や既成宗教の形骸化、スピリチュアルな運動の広がりもあって、生と死の価値観が動揺しており、その中で死生学が改めて問い直されているといいます。
続いて楊さんは、橋爪大三郎 ── 日本の社会学者。宗教社会学などで知られ、一般向けの著作も多く手がけていますさんの著書『死の講義』から、人間と死の関係は不思議だという指摘を紹介します。人間は死を経験できず、実は生まれたことも体験として覚えていない、という点です。
番組では、人間は生と死という「体験を超えたイベント」に挟まれた存在だと説明されます。樋口さんも「生まれた瞬間は覚えていない」と納得し、楊さんは、語りうるのは他人の死だけで、自分の死がどうかは誰にもわからないという橋爪さんの指摘に共感を示しています。
心臓が止まれば死?脳死が突きつけた問い
死は体験できないほど難しい概念です。それでも、物理的な現象としては存在するため、どの社会も何を死とみなすかを決めなければなりません。21世紀の日本では、法律上、死亡を宣告できるのは医師だけです。
医師は三兆候 ── 呼吸の停止、脈拍の停止、瞳孔の拡大の3つ。日本で伝統的に用いられてきた死の判定基準ですによって死を判定します。呼吸の停止、脈拍の停止、瞳孔の拡大の3つがそろったとき、医師はその人が亡くなったと判断でき、それによって法律上の死が決まります。
ところが医療の発達によって、思わぬ事態が生まれました。脳死です。脳死の状態では呼吸も脈拍も止まっていないのに、脳波は停止していて、脳は活動していないと考えられます。この状態を死とみなすかどうかは、議論の的になりました。
番組の解説によると、1968年にハーバード大学医学部が特別委員会を設置し、「不可逆な昏睡」を定義して、これを死とみなせるのではないかという見解を出しました。死とみなせれば、体から臓器を取り出して移植することが可能になります。
解説では、生の始まりについても同じ問題があると指摘されます。人工妊娠中絶をめぐっては、妊娠何週目から人間が生きているとみなすかが文化や社会によって異なるため、何週目以降の中絶を違法とするかの線引きが難しくなります。
これ(生と死)だからコントロールできるようになったから考えないといけないんですね。
社会はこうした問いに回答を与えなければならず、だからこそ死生学が重要になる、というのが番組の整理です。樋口さんは、脳死の状態でも生かし続けられるようになったことが、回答を迫られる理由だと受け止めています。
生物の基本は「不死」だった
ここから話題は「人間はそもそもなぜ死ぬのか」に移ります。番組は更科功さんの著書『人はなぜ死ぬ運命にあるのか』書名を主な参考にしています。
番組の解説によると、生物の基本形態は実は不死だといいます。生物は大きく、細菌、アーキア ── 古細菌とも呼ばれる単細胞の原核生物のグループ。見た目は細菌に似ていますが、遺伝的には別系統に分類されます、真核生物の3グループに分かれ、人間を含む哺乳類は真核生物に属します。3つは共通の祖先から分岐したと考えられていますが、生き残りの戦略が異なります。
え、(細菌は)死なないんですか?
細菌やアーキアは、殺そうとすれば死にますが、寿命で死ぬことはありません。グループの中の一部の個体だけが死ぬ種類です。栄養源がある限り自分のコピーを作って増え続け、環境が悪くなると仮死状態になって、環境が戻ると復活する生物もいるといいます。
一方、哺乳類には寿命があり、全ての個体が必ず死にます。番組ではこれを、必ずどこかで爆発する時限爆弾にたとえています。生物には「一部の個体だけが死ぬ種類」と「全ての個体が寿命で死ぬ種類」の2種類がいる、という整理です。
ほとんどの真核生物は多細胞生物へと進化しました。直感的には、コピーするだけの単細胞生物のほうがどんどん増えて有利に見えます。多細胞生物の細胞は、繁殖できない体細胞と、繁殖するための生殖細胞に分かれてしまうからです。
1個で完結し、どんどん自分をコピーできる。寿命で死ぬことがない
繁殖できない体細胞を抱える不利がある一方、細胞ごとに役割を分業でき、エネルギー効率がよい
それでも多細胞生物が生き残ったのは、細胞ごとに役割を分担する分業のほうがエネルギー効率がよいからだと説明されます。ただし単細胞生物が滅んだわけではなく、進化の中で両方が生き残ったといいます。
大企業とフリーランス一人みたいな。フリーランス全部一人でできてみたいな。
樋口さんのこのたとえを受けて、解説では「その大企業の中から、寿命を獲得して死ぬ種類が出てくる」と話が進みます。
生き物と石は何が違う?ガスコンロの火と渦潮
寿命の話の前に、番組はそもそも生き物と生き物でないものの違いはどこにあるのかを問います。石はずっと石のまま、細胞もずっと細胞のままで、形を保っている点は同じに見えます。
じゃあ俺は死んでるのか。
解説によれば、樋口さんが生きているのは、エネルギーやタンパク質が供給され続け、新陳代謝によって体を構成する分子が入れ替わりながらも、樋口さんとしての形が保たれているからです。
その最もシンプルな例がガスコンロの火です。金属は分子が移動しないので形が変わりませんが、ガスコンロの火は、ガスの分子が次々と供給されて燃えることで、形が変わらないように見えています。生物とは、中身が入れ替わりながら形が変わらないように見えるものだという説明です。
鳴門の渦潮も同じ構造で、エネルギーが供給され続けることで渦の形が保たれます。ただ渦潮は生まれたり消えたりしていて、どの時点から渦と呼べ、どの時点で渦と呼べなくなるかははっきりしません。
確かに何かふわっと始まってふわっと終わってるでしょうね、見てたら。
解説では、生物のあり方も渦潮と同じくグラデーションらしいと続けます。
ウイルスは生物か?ラムダファージが揺さぶる境界
生と非生物の境界の例として挙げられたのが、ラムダファージ ── 大腸菌に感染するウイルスの一種。細菌に感染するウイルスはバクテリオファージと総称されますです。ウイルスは細胞膜を持たないDNAの存在なので、生物学では一般に生物ではなく化学物質の塊とみなされます。
ラムダファージには2種類の増殖方法があります。1つ目は、大腸菌の中に入り込み、大腸菌のタンパク質を使って自分のDNAを複製し、最後に細胞膜を突き破って拡散する方法です。
2つ目は、大腸菌のDNAの中に自分のDNAごと潜り込む方法です。大腸菌はラムダファージのDNAごと自分をコピーするので、増えた大腸菌すべてに時限爆弾のようにラムダファージが入り込みます。そして環境が安定すると、自分のDNAを切り出して1つ目と同じように増殖します。
大腸菌のタンパク質で自分のDNAを複製し、細胞膜を突き破って拡散する。非生物らしく見える
大腸菌が少ない環境でとる戦略。大腸菌ごとコピーされ、細胞膜の中で増えるため生物らしく見える
解説によれば、2つ目の戦略は、大腸菌が少ない環境で大腸菌を全滅させないためのものだといいます。大腸菌ごと自分をコピーしているとき、ラムダファージは細胞膜を持っているようにも見え、生物っぽく見えてきます。
ここで持ち出されるのが、DNAの表現型という考え方です。雪原で目立たない白い体毛に進化したネズミの例では、白い体毛も雪原で行動することも、DNAの変異の間接的な結果です。設計図に基づいて建てた建物が設計図そのものではないように、表現型はDNAに基づくけれどDNAそのものではありません。
生物学では、体毛だけでなく行動も表現型とみなします。さらに、木を切り倒して自然環境を変えるほど巨大なダムを作るビーバーについては、ダムそのものが延長された表現型 ── 生物学者リチャード・ドーキンスが提唱した概念。遺伝子の影響が、生物の体の外にある構造物や他の生物にまで及ぶという考え方ですだと考えます。
そう考えると、ラムダファージによる大腸菌の乗っ取りも延長された表現型であり、ウイルスは生きているとみなせるのではないか、という疑問に行き着きます。
なんかそう言われたらそんな気がするけど、騙された気もするな。
決めの問題になっちゃってんだよな、本当は。
楊さんは、細胞膜の内側が生物で外側が非生物という区別も、そう決めているだけだと補足します。ラムダファージなら大腸菌まで含めて本体とも言え、それならビーバーのダムはどうなのか、と概念そのものが揺らぐというわけです。楊さんは、自分と自分以外の境界を恣意的に決めているというブッダの考えにもつながると話しています。
信号10個を渡りきる確率で考える自然淘汰
生物の変化は、進化論では自然淘汰 ── 環境に適した性質を持つ個体が生き残って子孫を残し、その性質が集団に広がっていく仕組み。ダーウィンが提唱しましたによって起きると考えられています。番組は、この仕組みを信号の思考実験で説明します。
等間隔に並んだ10個の信号を、止まらずに渡りきる人を考えます。歩く速度はみんな違い、1つの信号を止まらずに渡れる確率を10分の1とすると、10個すべてを渡りきる人を1人生み出すには、確率的に100億人が必要です。
だから10分の1が10個あるから10の10乗っていうことですよね。
ところが、1つ信号を渡るたびに、渡れた人が10人に分裂するとします。すると各信号で10人のうち1人が渡れればよく、確率は10分の1のままで済みます。100億人を最初に用意するのと、10人から始めて渡るたびに10倍にするのとで、最後に1人が残るという結果は同じです。
確率的に100億人が必要で、ほぼ全員が脱落する
各信号で9人ずつ脱落するだけで済み、脱落は90人ほどで済む
樋口さんは、脱落するのは9人×10で90人ほどだと計算し、楊さんは「死ぬことで消滅する個体を少なくできる」とまとめます。種が生き残る確率を上げるには、同じ個体がたくさんいるより世代交代をしたほうがよい、というのがこの思考実験の要点です。
100億人から始まって、1個渡りきるたびに分裂すりゃ、もっと生き残れるやんと思うんですけど。
樋口さんのこの疑問に対しては、環境が支えられるリソースには上限があるという答えが返されます。食料などの資源が有限だからこそ、死ぬ数を節約することが合理的になるといいます。
老いない村はなぜ弱い?寿命が種にもたらすもの
番組の解説では、自然淘汰によって多細胞生物に寿命がもたらされたらしく、その理由は寿命があるほうが進化的に得だからだと語られます。ここで、老いない人間の村という例え話が示されます。
その村の人は、いつまでも若く健康で、年を取っても子どもを作ります。もし高齢になってから発症する病気や特定の感染症への弱さを持っていても、若い人も高齢の人も同じように子どもを作るため、弱点が子の世代に引き継がれやすくなります。それを防ぐには、世代交代の頻度を上げたほうがよいというわけです。
この考えを逆説的に支持する例として挙げられたのが関節リウマチです。解説によると、関節リウマチは関節の病気と思われがちですが、実は遺伝性の免疫系の疾患らしく、この病気を持つ人は免疫能力がとても高いといいます。
高い免疫能力は若いころには病気になりにくいという利点になります。ところが年を取ると、その免疫が自分の体を攻撃し、節々が痛くなります。若いころのメリットが選ばれた結果、関節リウマチは人間の体に残り続けているという説明です。
スタートダッシュが早いけど、後半バテる馬みたいなやつしか残らないみたいな。
楊さんは、関節リウマチが生殖活動にあまり関係ない時期に発症するため、自然淘汰で淘汰されないのだと補足します。
同時に3人は、これはあくまで生物学的な話だと念を押しています。社会的に「人は寿命が来たら死ぬべきだ」と良しとする話でも、優生学的な話でも、高齢出産を否定する話でもない、という確認です。
楊さんによれば、寿命があって世代交代が進むと遺伝子のパターンが増えます。不死の個体が自分のDNAを50%持つ子を生み出し続けると、DNAの分岐パターンが少なくなり、感染症が入ったときに集落が一気に全滅しかねません。
樋口さんはこれを、種としてのレジリエンス ── 困難や変化から回復し、しなやかに生き延びる力。ここでは種全体として生き残っていく力を指していますの担保だと言い換えます。老いや死があったからこそ、多様性が保たれ、種として存続できたというのが、進化論から見た「人が老いて死ぬ理由」です。
自然淘汰ってシステムがうまく機能するためには、寿命があって死んだ方がいいってことですか?
解説はこれを「逆です」と訂正します。自然淘汰というシステムはもともと自然界にあり、その結果として、老いや死を持つ種のほうが存続できた、という順序です。
さっきの信号を渡れた人たちがそっち(老いて死ぬ側)だったって話ね。
老いて死ぬ性質を持つ者ばかりが信号を渡りきり、人間はその子孫だというわけです。そうでない側として生き残ったのが細菌やアーキアだ、と整理されました。
閉経後も長生きするのはなぜ?おばあさん仮説とシャチ
最後の話題は、生殖を終えたあとも長生きする人間の不思議です。鮭のように生殖活動をしたら死ぬ生き物も多い中で、人間の女性は閉経後も長く生きます。これは生物学・人類学上の謎だといいます。
解説によると、オランウータンやチンパンジーなどの類人猿は基本的に死ぬまで閉経せず、閉経するとほぼ死ぬそうです。人間がそうでない理由の仮説として紹介されたのが、おばあさん仮説です。
おばあさん仮説は、祖母が子育てに協力することで子や孫の生存確率が上がるという考え方です。実際、祖母がいる場合には乳幼児の死亡率が統計的に下がり、祖父の存在は影響しないといいます。
え、そこ(祖母と祖父で)差があるんや。
ただしこの仮説が成り立つには、祖母にとって自分の子を増やすより、孫を生き延びさせるほうに利点がなければなりません。子は祖母のDNAを50%、孫は25%しか持たないため、DNAの観点では子1人に見合うのは孫2人以上です。
しかも、祖母がいなくても生き延びる孫がいくらいても意味はなく、祖母がいることで生き延びる孫が2人以上必要になります。この条件で考えると、おばあさん仮説の妥当性は微妙だと言われているそうです。
DNAの比率
子は祖母のDNAを50%、孫は25%持つ
必要な数
子1人に見合うには、孫が2人以上必要
厳しい条件
祖母がいるからこそ生き延びる孫が2人以上いなければならず、妥当性は微妙とされる
一方で、シャチも閉経後に長生きすることが知られています。シャチと人間の共通点は、複数世代を含む家族集団で暮らすことで、シャチの群れには5世代が含まれる例もあるといいます。
シャチは母系集団でメスのほうが長生きなので、祖母が最も知識を持ち、群れでリーダーシップを発揮できるそうです。進化の系統が大きく離れたシャチと人間に同じ傾向が見られることは示唆的だ、と番組は位置づけています。
楊さんは、祖母がいると乳幼児死亡率が下がるのは社会性の影響が大きそうだと話します。おばあさん仮説は広く語られているものの、人が長生きする理由の説明として確定したものではなく、なぜ人が長生きし老いるのかは次回以降で扱うと予告されて、この回は締めくくられました。
まとめ
この回は、死の定義そのものが医学的にも生物学的にも決めの問題であることを示したうえで、進化の観点から「人はなぜ死ぬのか」をたどりました。老いや死は、自然淘汰の中で種が存続するための性質として獲得されたと考えられています。
- 生と死の境界はグラデーションで、三兆候や脳死の基準も社会が決めたものにすぎない
- 細菌やアーキアには寿命がなく、全個体が寿命で死ぬのは多細胞生物の特徴
- ラムダファージの例のように、生物と非生物の境界も見方次第で揺らぐ
- 世代交代によって死ぬ数を節約し、遺伝子の多様性を保てることが、寿命がもたらす進化上の利点とされる
- 閉経後も長生きする理由としてのおばあさん仮説は有名だが、妥当性には疑問も残る



