そもそも「予防法務」って何をすればいいの?
前回までは労働事件の実際を扱ってきました。今回のテーマは、そもそも争いにならないようにするための「予防法務」です。
小橋さんは、産業医も予防という観点から企業に関わっていると前置きしつつ、井山さんに予防法務の考え方を尋ねます。
井山さんがまず挙げたのは、自社の就業規則の内容を、経営者自身がざっくりでも知っておくことでした。忙しくて自社の規則を読んだことがない経営者は少なくないといいます。
自分の会社の就業規則の内容を知らない、読んだことないみたいな。厚労省の雛形まんまだからみたいな感じで、どういう時に解雇していいか懲戒していいかも把握してないみたいなところがあったりして。
そうなると、いざ「解雇したい」となっても、就業規則の根拠がわからず話が進まないことがあるそうです。だからこそ、自社の規定に一度目を通しておくと、予防のときの勘所がつかめると話します。
さらに井山さんは、雛形をそのまま使うのではなく、自社の業種やビジネスモデルに合わせてアレンジしていく段階では、社労士や弁護士といった専門家の力を借りることを勧めています。
就業規則の相談、弁護士と社労士どっちに聞く?
顧問弁護士も顧問社労士もいる場合、就業規則の細かい相談はどちらにすればいいのか。小橋さんは切り分けの目安を尋ねます。
井山さんによれば、社労士と弁護士の資格上の違いは「裁判をやれるかどうか」がほとんどで、そこ以外に大きな差はないといいます。
そのうえで、まだ紛争になっていない段階なら、まず社労士に相談するのがいいと話します。心理的なハードルも低いからです。ただし紛争になると、社労士は資格上その案件を扱えなくなる点には注意が必要です。
大きく社労士の先生方と弁護士の違いって、裁判やれるかどうかぐらいしかあんまり差がないので。紛争になってなかったら、まずは社労士の先生方にご相談いただくのがいいのかなって思います。
井山さんの事務所のように士業顧問をやっている弁護士がいれば、社労士が疑問点を弁護士に質問し、弁護士が間接的に答える場面もあるそうです。弁護士が必ず前に出なければならないケースは意外に少ないといいます。
社労士の先生方と食い合う関係にはないというか、職域を私たちは共存できると思ってますんで。
産業医の「非弁行為」、どこからがアウト?
ここで小橋さんが産業医の立場から切り込みます。産業医は労働安全衛生法や健診・ストレスチェックの通達など、法律に触れてアドバイスする場面が多いといいます。
そのうえで気になるのが「非弁行為」の線引きです。どこまでが産業医のやっていい業務で、どこからが弁護士の領域を侵すことになるのか、実はよくわかっていないと打ち明けます。
これに対して井山さんは、意外な本音を口にします。非弁行為は弁護士から見ても規制が曖昧で、予測が立てづらい分野だというのです。
取締官庁がアウトって言ったらアウトで、セーフって言ったらセーフ、理屈はそこにないみたいなことはあったりするんですよ。結構お気持ちの問題じゃないかみたいなところとか。
そもそも「事件性を非弁行為に要求するのかどうか」で解釈が割れている分野で、結果が出て初めて「これはアウトなんだ」とわかることもあると井山さんは言います。
さらに井山さんは、弁護士になると法律事務を自分でやれてしまうため、かえって非弁について疎くなりがちだと明かします。資格を持たない人のほうが、境界を意識して勉強するインセンティブがあるというわけです。
裁判例の「都合のいい切り取り」が危ない理由
小橋さんは、産業医の中には経験を積むうちに法律や裁判例に詳しくなり、いわば「プチ弁護士」のようになってしまう人もいると指摘します。
問題は、裁判例を過度に切り取って解釈し、企業にアドバイスしてしまうことです。裁判例にはさまざまな文脈があるはずで、そこを無視するのは危険ではないかと小橋さんは考えています。
井山さんも、裁判例を読むのは実は難しいと同意します。その裁判所の判断が一般的に普遍化できる解釈なのか、その事案限りの解釈なのかを見分けるには、専門的な素養が要るといいます。
業界用語で射程って言うんですけど、判例の射程っていう、その広さですね。どこまでカバーしてる判決なのかっていうことを考えるのって結構難しいんですよ。
都合のいい部分だけを切り取ってアドバイスすると、射程が及んでいない事案に無理に当てはめることになりかねません。それで後から「話が違う」と詰められるのは、よかれと思っていた産業医にとって気の毒だと井山さんは話します。
井山さんによれば、裁判例をきちんと読めるようになるには、法律の基礎的な素養に加えて、通年での研鑽が必要だといいます。本来は法学部で数年かけて学ぶ内容なのだそうです。
小橋さんはこれを、医学の場面にたとえます。素人が「君、何とか病でしょ?」と勝手に診断するのと同じではないか、と。
あなた発達障害でしょ?みたいに言っちゃう人いるじゃないですか。良くなく一人歩きしてた、ああいうものと多分同じだと思います。
弁護士と産業医、それぞれの連携で感じたこと
話題は、弁護士と産業医の連携の実際に移ります。小橋さん自身、裁判に出廷した経験はないものの、使用者側の弁護士と協力しながら、対応の難しい社員のケースに一緒に取り組んだ経験があるといいます。
産業医一人ではできないことも、弁護士と連携したからこそ安心して取り組めた、と小橋さんは振り返ります。
一方の井山さんは、弁護士として産業医に関わる場面は、その多くが紛争性のある案件になってしまうと明かします。医学的なことがわからない場面で、産業医の意見を頼りにさせてもらうそうです。
紛争性のあるものをなんか投げてしまっているところがあるので、そこは若干ちょっとなんか申し訳ないと思っているところもあるんですね。
そのうえで井山さんは、産業医が主治医に質問や書面を送るとき、弁護士がどう振る舞えば医師同士のコミュニケーションがやりやすくなるのかを、いつも気にしていると打ち明けます。
産業医が主治医に手紙を書くとき、弁護士は何ができる?
小橋さんは、産業医が主治医に手紙を書く場面を具体的に説明します。多くは、その社員が本当に働けるのかを確認したいときだといいます。
その背景には「事例性」があります。実際に働けていない、勤怠が乱れているなど、病気が影響している可能性のある事実があり、それを確認するために手紙を書くのだそうです。
同じ医師同士だからこそ、なぜ意見を聞きたいのかという背景を伝えることで、主治医との信頼関係をつくっている面もあると小橋さんは話します。
ここで弁護士の存在が生きてきます。会社の状況を伝える際、その根拠に弁護士の意見があると、より確固たる手紙が書けるといいます。
一方で、なぜ主治医が患者の情報を出さなければいけないのかと不信感を持つ医師もいます。井山さんも「弁護士」と聞くと構えられるのではないかと気にしていました。
なんの目的で産業医が主治医に手紙を書くのかっていうのを、逆に会社が産業医に説得するというか。その場面で弁護士の先生の根拠とかあると、産業医も確かに納得しやすい部分もあるかもしれないですね。
井山さんは、具体的なエピソードがあると繋ぎやすいと応じます。この業務になると途端にいなくなってしまう、勤怠が乱れているといった事実があれば、雇用契約の内容を履行できていないのではという観点から、医師の意見を求めやすくなるからです。
産業医は「個人を守る」ためにも動いている
小橋さんは、産業医が主治医と違うのは、個人の利益と会社の利益を天秤にかける独立した立場である点だと説明します。
それでも根本は医師なので、その人の健康を守りたいという思いがあります。だからこそ、弁護士や会社が産業医に説明するとき、大事にしてほしい視点があるといいます。
そうした説明があると、産業医も納得しやすいと小橋さんは話します。井山さんも深くうなずいていました。
弁護士は面談にいたほうがいい?産業医から見た答え
井山さんは、診断書だけではわからないことが多いため、主治医面談や産業医面談を頼むことも多いと話します。ただ、弁護士の同席を歓迎する医師もいれば、来ないでほしいという医師もいて、対応は分かれるそうです。
弁護士とかを同席させた方がいいって先生方もいれば、来ないでくれって先生方もいたりとか。産業医界隈とかで、こういうやり方がオーソドックスだよねみたいなものって今あったりするんですか?
小橋さんは、産業医面談の流れを整理して答えます。まず企業の担当者と産業医が面談の目的を決め、次に本人と面談し、医学的に働けるかをアセスメントして会社にフィードバックする、という流れです。
問題は、そのフィードバックの場面です。医学的な意見だけでは解決できず、就業規則や法律など会社側の事情も絡んでくるからです。
そうした場面でこそ、弁護士にも一緒に入ってもらう意味があると小橋さんは言います。本人を辞めさせるためではなく、お互いにとって一番いいやり方を考えるために話し合うのだと強調します。
もちろん本人の同意があるかどうかは前提になりますが、こうしたプロセスを踏みながら一緒に進めていくことはあり得ると小橋さんは話します。
どのタイミングで弁護士が前出るのか、引き取るべきなのかっていうのはいつも事案ごとで考えてたんで、産業医の先生がいてくれてもいい場面があるよって言っていただけるのはありがたいですね。
井山さんは、医学のフィールドになると弁護士は素人なので踏み込みづらいと感じていたそうです。裁判例の議論と同じで、専門外には慎重になるということです。
予防法務と予防医学、目指す方向は同じ
対話を通じて小橋さんが感じたのは、予防法務と予防医学の重なりでした。ベースとなるフィールドは違っても、目指す方向は同じではないかというのです。
たとえば健康診断をしっかり受けて、その後のフォローアップをすること。これは法律にも書かれていますが、医学の観点から見ても大切なことだと小橋さんは言います。
フィールドがそれぞれベースは違うけど、結果的にやることだとか目指す方向っていうのはなんか一緒なのかなっていうのは、聞いてて感じたところです。
井山さんも「とっても勉強になります」と応じ、産業医の立ち位置や気にしている点への解像度がだいぶ上がったと振り返りました。
井山さんの新刊と、続巻に込めた狙い
最後は、井山さんの出版記念の告知です。3月7日に『労働事件《実例》トレーニングⅠ 未払い残業代請求 ―使用者側弁護士の思考と実務対応―』を出版したといいます。
コンセプトは、未払い残業代請求をテーマに、使用者側専門の弁護士が実際にどう対処し、何を主張立証していくのかをまとめること。そのうえで、どう予防していくかまで最後に触れているそうです。
人事労務に関わる方々、つまり紛争行ってしまうと裁判になりますので、裁判で何が起こるのかを知っておけば、皆さんの人事労務のお仕事にも役に立つんではないかというところで執筆しています。
すでにⅡ、Ⅲの刊行も予定されていて、Ⅱは「休職・労災」をテーマに執筆中だといいます。まさに主治医面談や産業医面談といった、今回の対話に重なるテーマが扱われる予定です。
小橋さんも新刊を読んだうえで、労働事件の考え方の基本から流れまで勉強になったと話し、休職・労災・解雇・退職・雇い止めを扱う続巻を楽しみにしていると締めくくりました。
まとめ
今回は、予防法務をテーマに、弁護士と産業医がそれぞれの立場から本音を語り合いました。争いを防ぐ土台づくりから、主治医への手紙や面談での連携まで、両者が同じ方向を向いていることが浮かび上がる回でした。
- 予防法務の第一歩は、経営者自身が自社の就業規則の内容をざっくりでも把握しておくこと
- 紛争になる前の相談はまず社労士へ。裁判が必要な段階になると弁護士の領域になる
- 非弁行為も判例の射程も線引きが難しく、都合よく切り取った法律アドバイスは危険
- 産業医が主治医に手紙を書くときは「事例性」が起点。弁護士の根拠が手紙の説得力を高める
- 弁護士の同席は、本人を辞めさせるためではなく、お互いにとって最善の道を探すためのもの



