『集団浅慮』は古賀さん最初で最後のビジネス書?
今回のゲストは、『嫌われる勇気』をはじめ数々のベストセラーの構成や執筆を手がけてきたライターの古賀史健さんです。古賀さんの最新作『集団浅慮』は、フジテレビの一連の問題について公表された膨大な調査報告書を読み、感銘を受けた古賀さんが1冊の本にまとめたものです。
今井さんの紹介によれば、『集団浅慮』は古賀さんにとって「生涯最初で最後の自分名義のビジネス書」になるかもしれない本だといいます。古賀さん自身も、その見立てを認めています。
いわゆるビジネスパーソンとか経営者とか管理職の方に読んでほしいという、そういう意図で書くのは多分最初で最後じゃないかなというふうに思っています。
青木さんは古賀さんを『嫌われる勇気』で知ったため、本の冒頭で語られるビジネス書ライターとしての経歴を読んで腑に落ちたそうです。一方で、これからビジネス寄りの本が続くのかと期待していたところ「最後」だと聞き、驚いていました。
青木さんと古賀さんは今回がほぼ初対面で、年齢は1つ違いほどです。今井さんは前職の出版社時代から15年ほど古賀さんに世話になっており、駆け出しの頃に多くを教わったといいます。
誰にでも敬語とさん付けで接する古賀さんが、今井さんだけは「今井君」と呼びます。古賀さんの説明では、今井さんの上司だった編集者の柿内さんが「今井君」と呼んでおり、3人で会うことが多かったため自然とそうなったそうです。
だからなんかね、こう、呼び捨てしてもらって初めて距離が近いというか、先輩後輩みたいな、なんかそういうのはあるかもしれないです。
読後ずっと続くモヤモヤ、「どこで間違えたのか」
『集団浅慮』の感想を聞かれた青木さんは、大きく傷つき苦しんでいる人がいることを前提にした本なので、軽々しく「面白かった」とは言いにくいと前置きしました。そのうえで、読んでからずっとモヤモヤしていると話します。
ずっとモヤモヤしてるんですよ、読んでから。そういう意味では、読書体験としては最も良い読書体験じゃないですか。そのことを考え続けられるっていう。
青木さんが考え続けていたのは、フジテレビの問題が「結局どこで間違えたのか」という点です。自分がどの立場にいれば止められたのか、少なくとも責任を果たせたのかを考えていたといいます。
青木さんの見立てでは、経営やマネジメントの責任として、傷つき混乱している人を前にしても「普遍的な正しさを持って意思決定をする」ことが必要だったのではないかということでした。ただ、自分がその場で本当にそれをできたか、できた自分を肯定できるかはわからないとも話しています。
青木さんは、この本にはアドラーの課題の分離 ── アドラー心理学の考え方で、ある問題が最終的に誰の課題なのかを見極め、他者の課題には踏み込まず、自分の課題に責任を持つという姿勢のことに近い話が底に響いていると感じたそうです。その視点がなければ、本の内容が「人間って愚かだよね」という話で終わってしまうと考えています。
青木さんは、フジテレビの事件の中身を議論するより、『集団浅慮』を通じて古賀さんがどう見たのか、なぜ書こうと思ったのかを知りたいと語りかけました。
外部の専門家を招くと、判断の負担はどう変わる?
古賀さんはまず、アドラーが説く課題の分離は絶対に必要だと答えます。課題を分けなければ、マネジメント側のストレスも大きく、まともな意思決定ができないというのが古賀さんの考えです。
たとえば心に傷を負った従業員がいて、その人のケアも含めた経営判断を下す場面を、古賀さんは挙げます。古賀さんによれば、こうした判断は一人でできるものではなく、フジテレビの第三者委員会の調査報告書でも、外部の専門家を招き入れることが軽く触れられているといいます。
古賀さんが勧めるのは、心理ケアの専門家など外部の意見を重視して判断することです。経営者としての「こうあるべき」や、目の前の従業員への思い入れでジャッジすると、必ず迷ってしまうからだといいます。
外部の専門家の意見を取り入れると、ある意味その「自分一人で決めてない」っていうところもあるので、心の負担ってだいぶ減っていくと思うんですよね。
フジテレビの問題であれば、心理ケアの専門家に加え、ビジネスと人権 ── 企業活動が従業員や取引先、地域住民などの人権に与える影響に、企業自身が責任を持って取り組むべきだという考え方。国連の指導原則などで国際的に広がりましたの専門家の意見も必要だったと古賀さんは指摘します。適切な外部とのコネクトを持っているかどうかが、フジテレビの経営陣に足りず、これからのマネジメント層に求められる点だと古賀さんは考えています。
コンプライアンス窓口はあったのに、なぜ機能しなかった?
同じ上場企業の経営者として読んだ青木さんは、フジテレビにもコンプライアンスや通報のルート、外部識者との連携など、体制としての機能はあったはずだと見ています。古賀さんも、機能はあったと同意しました。
青木さんが私見として挙げた起点は、被害を受けた方の意向を最優先した最初の判断です。被害者は仕事を続けたいと望み、関わる人を最小限にしてほしいと求めていました。本によれば社内には「コンプラに言うと噂になる」という認識もあり、訴えを聞いたマネジメントはコンプライアンス部門に通報しない選択をしたといいます。
青木さんは、その動機が被害者が自死する可能性も考えて守ることにあったのだろうと推測します。しかし会社のマネジメントとしては、それが一番良くなかったのではないかと考えています。
被害者が自死する可能性を課題分離して、それは被害者の問題であるというふうに意思決定をすれば、おそらく機能したんじゃないかなって思ったんですよね。
ただ青木さんは、自分がその立場でそう決めることを想像すると、自分を「なんて酷薄な人間だろう」と思ってしまうとも打ち明けます。この苦しい立場こそが、ずっと続くモヤモヤの正体だと青木さんは話しています。
「コンプラ=放送コード」という社内の思い込み
古賀さんは周辺取材の内容をもとに、フジテレビのコンプライアンス室は実質的に機能していなかったと説明します。コンプライアンス室の関心は、放送上言ってはいけない言葉などに偏っていたといいます。
コンプライアンスっていうのは、その放送コードを守ることだっていうのが一般的な認識で。
社員の人権をどう救済するかという、コンプライアンス室が本来果たすべき役割については、研修もほとんどなく、室内の人の意識もほぼなかったそうです。そのため、アナウンス室の上層部から見ても、コンプライアンス室は管轄が違う部署に映っていたと古賀さんは見ています。
古賀さんによれば、手続き上はコンプライアンス室に上げるべき事案でしたが、被害者自身がそれを嫌がっていました。加えて、社員たちが異口同音に「噂が広まりやすい会社だ」と言っていたことも、上げなかった理由にあったようです。
もう1つの要因として、古賀さんはフジテレビの編成 ── テレビ局で、どの番組をどの時間帯に放送するかを決める部署。番組の企画や出演者の決定にも強い影響力を持つ、局の中核部門とされますが社内で一番偉い部署だったことを挙げます。編成の決定には誰も口を出さず、編成自身も外の意見を聞く必要はないと考えていたのではないかと古賀さんは話しています。
古賀さんは、テレビ業界ならではの特殊さもあるとしつつ、日本の歴史ある企業は往々にしてこうした問題を抱えているのだろうと述べています。
「傍流」とされる部署が会社を守っている
青木さんは、会社を構成する部署同士の理解とリスペクトの薄さが、問題の根本にありそうだと話します。「自分たちが稼いでいる」と思う部署は、営業だったり技術部門だったりと、会社によって違います。
なんか実は会社を会社として成り立たせて守るためには大事な機能を果たしているということの会社全体の認識がなくて、そうするとそれをやる人も嫌々やることになるじゃないですか。
古賀さんは出版社の例として、著作権などを管理するライツの部署を挙げました。昔ながらの出版社では編集と営業が花形で、そこから漏れた人がライツに回り、やりがいも社内での立場も弱くなりがちだといいます。
しかし今は、ライツの動き方によって出版社の売上やIP ── Intellectual Propertyの略で知的財産のこと。作品やキャラクターを映像化、商品化、海外展開などに広げて活用する文脈でよく使われますの活用が大きく変わると古賀さんは指摘します。おそらく海外の企業ではライツの重要性はまったく違うはずで、こうした歪んだ構造はクリエイティブ系やものづくり系の企業に今もあると古賀さんは見ています。
編集と営業が花形で、ライツは管理をするだけの傍流。やりがいも社内の立場も弱くなりがち
ライツの動き方次第で、出版社の売上やIPの活用が大きく変わる
青木さんは、放っておくとどこかに偏りが出る力学が働くと話し、自社での工夫に話をつなげました。
トップの「いる仕事」は会社の整体になる
クラシコムには、ものづくり、コンテンツ制作、社内システムを開発するエンジニアリング、バックオフィス、内部監査室など多様な機能があります。青木さんは、傍流と見なされがちな部署にこそトップが時間を使うよう意識してきたといいます。短期的なメリットがなくても、メッセージングとしての効果が大きいからです。
その例が衛生管理委員会です。社員の健康やストレスの問題に対応する委員会で、産業医と総務部門の担当者や責任者が集まる場ですが、青木さんはその定例に3、4年ほど出続けていたそうです。
(衛生管理委員会で)「何かありますか?」って言われても、まあ「みんなな、健康に留意して頑張ってな」とかぐらいしか、実際としてはその貢献できる機能はないんだけど、そのいる仕事っていうのが非常にあると思っていて。
社員の健やかさが収益に直結することには、出席しないトップでも同意するはずです。ただ青木さんは、思っているだけでは伝わらず、出席する、時間を使う、公に言及するといった一つひとつの行動がバランスを取ると考えています。
逆にやりすぎると、委員会が「健康警察」のように権威を持ってしまう恐れもあります。その場合は、しばらく場を離れて様子を見ることもあると青木さんは話しています。
一個その整体みたいな役割がね、トップにあるんじゃないかなみたいな、すごい読みながら思ったんですよね。
サラリーマン社長には見えづらいもの
古賀さんは、フジテレビの経営陣が編成出身のいわゆるサラリーマン社長で、編成のことしかほぼ知らなかった点を指摘します。創業オーナーの青木さんのように、小規模の頃から全部を自分で見てきた経営者なら目が届くかもしれませんが、メインストリームだけを歩んできた人には見えづらいといいます。
小規模の頃から全部を自分で見てきたため、各部署に目が届きやすい
メインストリームだけを歩んできたため、それ以外の部署が見えづらい
青木さんは、機能を備えても目線に入っていなければ意味がないと応じます。人の体と同じで、姿勢を良くしようと意識できている時間は長くなく、悪いところがわかっていても治せないことがあるといいます。
青木さんにとって、体は神経や機能の集合体で、意識でコントロールしにくいという意味で「集団浅慮」的な存在です。心臓は自分で動かしていないのに動き続けるように、会社の物流なども自動で回っているように錯覚しがちで、ケアを怠れば危ういと青木さんは話しています。
だからなんか意見を聞くっていうよりは、なんか見る、なんていうかな、役割をちゃんと分けてくっていうんですかね、その見れる人を登用して。
「面倒くさい」ルールに一つずつ納得できるか
古賀さんは、放送上のコンプライアンスや上場に伴うルールを、テレビ局や多くの企業の人たちが「外から押し付けられる面倒なもの」と感じ、バックオフィスに任せがちだと話します。
その一つ一つのルールにはちゃんと理由があるはずなんですよね。
古賀さんによれば、一つひとつのルールに「なぜ必要なのか」と疑問を持ち、納得していく経営者なら、全体に目が行き届くといいます。納得しないままルールを取り入れていくと、今回のフジテレビと同じ状態になるのではないかというのが古賀さんの見方です。
古賀さんは、知ろうとする意思、学ぼうとする意思を本人がどれだけ持っているかが大事になると話しています。
青木さんは、上場の過程で規定を1つずつ決める場にすべて参加したと振り返ります。本当にやる必要があるのか、本当にこの形で実装しなければならないのかを議論し、納得できなければ上場をやめてでも阻止するつもりだったそうです。結果として、納得できないルールは1つもなかったといいます。
監査はCEOを「見張る仕事」から解放する
青木さんが例に挙げたのは、監査等委員、内部監査室、会計監査からなる、いわゆる三監査 ── 企業の監査体制を構成する3つの監査の総称。一般には監査役等による監査、内部監査部門による監査、監査法人などによる会計監査を指しますです。導入には面倒が多いものの、青木さんはこれがなぜ良いことなのかを考え抜いたそうです。
中小企業の経営者は、先輩経営者から「出金だけは見ておけ」と助言されることがよくあるといいます。不正な出金さえ把握できれば、金銭の不正は起きないからです。
(出金を見張るということは)監査がやってる仕事がCEOの仕事になってるんですよ。
監査を入れると、CEOは見張る責任から解かれます。問題が起きても経営者の責任は残りますが、「ずっと見張っていなかったじゃないか」と責められることはなくなる、と青木さんは説明します。
CEO自身が出金を押さえ、社内の人間を性悪説で見張る
見張る役割を主に外部の人が担い、CEOは見張る仕事から解かれる
青木さんにとって、みんなを疑って見張る仕事は、CEOが一番解かれたい仕事です。内部の人間が内部の人間を性悪説で見張る構造から離れられる点で、監査は組織を健やかにすると青木さんは考えています。
青木さんは、証券会社や監査法人には「面倒くさい」と思われただろうとも振り返ります。一方で、納得しないまま「言われるからやる」という土台の上で、正しい意思決定ができる執行を回すのは難しかったかもしれないと話しています。
わかったふりが「欺瞞」を生む
古賀さんは、青木さんの話を聞いて、普段のインタビューにも似た構造があると話します。たとえば相手の話がわからなくても、場をうまく回すためにわかったふりをしたり、突っ込むと面倒そうな質問を避けたりすることは、多くのインタビュアーが経験しているといいます。
和やかに終われば良いインタビューができた気になりますが、原稿を書く段になって材料がないことに気づくと古賀さんは話します。疑問が残ったまま書く原稿は、どうしても薄っぺらくなるそうです。
自分が何をわかってないのかを発見できる能力、それが大事な気がするんですよね。
青木さんは、わからないまま受け取った時点でそこに欺瞞があると応じます。欺瞞が増えすぎると、何が本当かがわからなくなり、土台が弱くなるというのが青木さんの考えです。
限りなく自分は欺瞞を最小化する努力したなっていう、なんか納得感を持ってしか、なんかその上に物って建てられないよねというのはすごく思ってるんで。
青木さんは、上場の過程で自分がしていたことも、質問を重ねる「インタビュー」だったと気づいたといいます。さらに、ルールを「不快じゃない」と思い込むことも欺瞞であり、「正直不快だが、全体最適の観点からは意味がある」と認めることが、欺瞞のなさにたどり着く道だったと話しています。
数十冊を読んで、テーマの「地図」をつくる
古賀さんは『集団浅慮』の巻末に載せた参考文献が100何十冊にのぼり、載せなかった本も含めると200何十冊になると明かしました。
たとえば本の中でフェミニズムに触れるにあたって、古賀さんは取材前にはフェミニズムについて何も知らなかったといいます。そこで土地勘をつかむために、関連書を30冊、50冊と読み込みました。
何が正しいとされ、何が間違いとされているのか、誰が評価され、誰が異端と見なされているのかは、2、3冊ではわからないと古賀さんは話します。何十冊か読んで、ようやくその領域の地図が見えてくるそうです。
わかったつもりになり、その情報を跳ね返すように発信するだけになる
歴史や派閥まで含めた地図が見え、自分が納得できる説を自分の声として言える
ちゃんと何十冊か、その分野に関する本を何十冊とか読んで、である程度自分の中で耕して、で、自分のこう、芽を出して発信するっていうのは、全然その言葉の強度が違ってくると思うので。
古賀さんは、青木さんが証券会社や監査法人に対して重ねた質問も、きっと同じプロセスだったのだろうと話しました。青木さんは、少なくとも「自分の望みでこう決めた」と言えるところまで行きたかったと振り返っています。
「欺瞞なくやりたいが、経済がそれを許さない」
青木さんは、200冊、300冊を読むような準備ができるかどうか、そこにリソースをかけられる環境やビジネスの土台があるかどうかが重要だと話を広げます。
多分書き手の方の中でも欺瞞なくやりたいが、経済がそれを許さないとか、あるいは経済に支えられたスケジュールがそれを許さないみたいなことで、「いや、本当だったらもうちょっとやりたいんだけどな」みたいなこともあるじゃないですか。
青木さんが上場の過程でしつこく質問できたのは、上場しなくてもよかったから、つまりキャッシュがあったからです。青木さんはそれを運が良かった要因だと捉えています。
青木さんは、集団浅慮を避ける議論が、判断から、欺瞞のない準備や納得へ、さらにそれを支えるビジネスモデルや事業環境へと、どんどん土台に向かっていると感じたそうです。
判断
その場で正しい意思決定ができるか
準備と納得
欺瞞なく疑問をつぶし、納得したうえで決められるか
経済的な土台
準備にリソースをかけられるビジネスモデルや事業環境があるか
会社を作って「時間」を買う
古賀さんは、これまで100冊以上の本を作り、多い年には年間18冊を書いていたと振り返ります。そのペースでは1冊のために200冊の参考文献を読むことはできません。
やっぱり今思うと、面白いけれども、内容としては薄い本になってしまうんですよね、どうしても。
売れる本が出て、1年間これに賭けても大丈夫、向こう3年は食える、という経済的なゆとりができて、ようやくじっくり取り組む本が作れるようになったと古賀さんは話します。そうして生まれた1冊が『嫌われる勇気』で、年間18冊のサイクルの中では絶対に無理だったといいます。
年間18冊のペースで書き、雑誌の代わりに読む程度の情報量の本になりがち
経済的なゆとりができ、『嫌われる勇気』のようにじっくり取り組む本が作れるようになった
古賀さんが会社を作ってライターを雇ったのも、同じ理由です。会社が給料を払い、向こう3年から5年分のキャッシュを確保して、落ち着いて本当に良いと思うものを作れる環境にしたかったといいます。
特にフリーランスは食うための仕事を回し続け、自分のためにも世の中のためにもならない成果物を吐き出すサイクルに陥りがちだと古賀さんは話します。そこから抜け出すことが、会社設立の大きな動機でした。
青木さんは、調子の良い時期のフジテレビであれば、同じ環境、同じ機能でも違うシナリオがあったのかもしれないとも感じたそうです。青木さんにとって、『集団浅慮』を読むことは古賀さんとの対話のような体験で、他人事とは思えなかったといいます。
『集団浅慮』は古賀さんの『アンダーグラウンド』?
青木さんは『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』を読んでアドラー心理学にのめり込み、それが自社の背骨になっていると話します。今回の対談を前に『さみしい夜にはペンを持て』も読み、古賀さんの著作を線で見たときの『集団浅慮』の位置づけを考えたといいます。
青木さんが感じたのは、迷い葛藤する人の側に立ちたいという動機と、それでいて共感や励ましではなく徹頭徹尾理性でそれをしたいという軸です。
(『集団浅慮』は)僕にとってはなんか村上春樹のあのアンダーグラウンドに近いものに見えたんですよね。
青木さんにとって村上春樹の『アンダーグラウンド』 ── 村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者や関係者に取材したノンフィクション。小説家としての作品群の中で異色の1冊として知られますも、一貫性は感じるのにうまく説明できず、モヤモヤした本だったそうです。
言語化しないまま、光を反射する鏡でいる
古賀さんは、先日の文学フリマで出した本が、初めて自分のために書いた本だったと明かします。一方で『嫌われる勇気』も『集団浅慮』も、一貫して自分のためではなく、苦しんでいる人、困っている人のために書いたという意識が強いといいます。
『嫌われる勇気』の頃には、周りに心を病んでいる友人がたくさんいて、その人たちに届く本を作りたいというのが根底の動機でした。『集団浅慮』も、被害女性や世間で苦しむ女性たちに向けて、構造を変えたいという思いで書いたそうです。
古賀さんは、アドラー心理学やフジテレビの調査報告書に強い衝撃を受け、「これは広めなければ」と動いてきました。ただ、自分の中に何があってそれをキャッチするのかは、あえて言語化しないようにしているといいます。
言語化して、例えば何だろう、自分は人権っていうものをすごく大事にしたいと思ってるみたいに、言語化するとその情報しか入ってこなくなっちゃうと思うんで。
古賀さんは5年日記をつけていますが、去年の今頃はこの報告書も出ておらず、この本を書くとは夢にも思っていなかったそうです。来年の今頃は、まったく違う本を書いているだろうと話します。
自分を鏡のような感じで、どっかから当たった光を社会にこう反射する。なんかそういうものとして自分を認識してますけどね。
絶望の中にも一筋の光を探す
青木さんは、深刻で切実な問題を理性的なトーンのまま書いているからこそ『集団浅慮』を読めたと話します。ちょうど読み始めた『夜と霧』にも、似たトーンを感じているといいます。
青木さんによれば、『夜と霧』 ── 心理学者ヴィクトール・フランクルが、ナチスの強制収容所での体験を記した本。極限状況での人間の心理を冷静な筆致で描いていますも悲惨な話なのに、理性的なトーンで書かれているので読めるといいます。看守や特権を得た収容者など、どの立場に置かれても自分はそうならないとは思えないまま、モヤモヤしながら読んでいるそうです。
古賀さんは、売れる本の多くが煽ることを好まず、作為が透けて見えるものを作りたくないと話します。作為が見えた瞬間、読者や消費者は致命的に冷めるからです。
古賀さんがもう1つ大事にしているのが、どんなに絶望的な中にも何かの希望を置くことです。「こんなに悲惨なんです、わかってください」と訴えるだけでは、訴える側は満足できても、受け取る側には真っ黒なものを真っ黒のまま渡すことになると古賀さんは考えています。
古賀さんは、その一筋の光を探すことこそが表現者の仕事だと話しています。
挨拶した瞬間にわかる「作為への敏感さ」
青木さんは、自分は自己認識として作為的な人間であり、だからこそ作為が怖いと打ち明けます。
自分の中では作為と作為に基づいてやる何かっていうのを黒魔術だと思ってて、滅多には使っちゃダメ。
そう、そのからくりを知ってないと自分を抑制することもできない。
青木さんは、古賀さんと挨拶した瞬間に「この人は作為に敏感で、それを良くないと思っている」とわかったといいます。作為のない自分を演出してもばれるので、丸腰で臨むしかなかったそうです。
青木さんは事前に、『集団浅慮』の話をうまくできる気がしない、モヤモヤしているからだと伝えていました。それでも結局最後までその話をしたことが、作為なくやった形だったと青木さんは振り返っています。
わかりやすさではなく「親切な階段」をつくる
今井さんは、作為を省く書き方は、古賀さんが読者をとても信頼しているということではないかと尋ねました。
古賀さんは、『集団浅慮』に対して「調査報告書をわかりやすくまとめてくれた」という感想をよくもらうものの、「わかりやすい」は眉唾だと考えているそうです。複雑な物事をわかりやすくするときには、必ず削ぎ落とす情報や単純化があり、そこでおかしくなるものもあるからです。
古賀さんは、1段ずつ登れば理解できる階段を、頑強なロジックで設計していると説明します。自分が登れる階段なら皆さんも登れるはずだという、親切に作った階段への信頼が古賀さんにはあります。
情報を削ぎ落としたり単純化したりするため、おかしくなるものも出てくる
頑強なロジックで階段を設計し、1段ずつ登れば理解できるよう導く
それと同時に親切って厳しいですよね。要するにここまでは上がれよっていう。
「わからなかった」という反応については、古賀さんは論理ではなく感情の問題だと捉えています。アドラー心理学の考え方が大好きだという感情が土台にある以上、感情的に違うと感じる人がいるのは当然で、1億3000万人全員に1つの答えを届けるのは無理だといいます。そうした声は聞いたうえで、次の本の説明に生かすことが多いそうです。
読書の感想は「面白い」から「役に立つ」へ
30年ほど書き続けてきた古賀さんに、今井さんは読者の変化を尋ねました。古賀さんによれば、90年代までは本を読む人が雑誌と書籍の両方を読んでいたといいます。
2000年代の初めから雑誌が衰退し、雑誌が担っていた情報の役割を新書が引き受けるようになったと古賀さんは話します。古賀さんが挙げたのは『青空舎』や『バカの壁』などの新書ブームで、雑誌の第一特集程度のライトなテーマが新書1冊になったそうです。
その結果、新書やビジネス書を読む人が増え、本の感想が「面白かった」から「役に立った」へと変わっていったと古賀さんは分析します。古賀さんが小説仕立ての中学生向けの本『さみしい夜にはペンを持て』を作ったのは、この「役に立つかどうか」の軸から離れたかったからだそうです。
古賀さんは、いま話題の令和人文主義 ── 近年、人文知を現代の仕事や生活に結びつけて読もうとする動きを指して使われている言葉。書籍やポッドキャストなどを通じて広がっていますの動きを、情報と読書の折衷点として前向きに捉えています。情報を求める気持ちは確実にあり、ポッドキャストやYouTubeも情報のために使われていることが多いといいます。
今井さんは「ここから1時間喋れる」と名残を惜しみ、古賀さんも「またやりましょう」と応じて、収録は締めくくられました。
まとめ
古賀史健さんを迎えたこの回は、『集団浅慮』が描くフジテレビの問題を入り口に、組織が判断を誤る構造から、欺瞞なく考えるための準備や経済的な土台、作為のない書き方、読書の変化までを一続きに語り合う対話になりました。
- 傷ついた当事者を前にした判断こそ、課題を分離し、外部の専門家を招き入れて一人で決めない仕組みが必要になる
- コンプライアンスや監査などの「傍流」とされる機能は、トップが時間を使い、ルールの理由に一つずつ納得することで初めて生きる
- わかったふりは欺瞞を生む。何十冊もの読書や質問を重ねて自分が何をわかっていないかを見つけ、そのための時間を経済的な土台で支える
- 古賀さんは煽りや作為を避け、絶望の中にも一筋の光を置き、わかりやすさではなく「親切な階段」で読者を導こうとしている
- 本は「面白い」から「役に立つ」へと読まれ方が変わってきたが、いまは情報としての本と読み物としての本が並立している





