科学系ポッドキャストの日と「効果」というテーマ
今回は6月の「#科学系ポッドキャストの日」に参加する回として、共通テーマ「効果」に沿った話がお届けされます。
テーマの切り口として選ばれたのが、ワクチンの効果です。
そして日本で最初に予防接種となるワクチンを広めた人物として、緒方洪庵が紹介されます。
緒方洪庵とはどんな人物か
緒方洪庵は、江戸時代に天然痘のワクチンを日本で広めた人物です。
その活動は、後に弟子の長与仙斎へと引き継がれていきます。長与仙斎は、過去回の北里柴三郎の盟友として登場した人物だと補足されています。
洪庵は1810年、備中の足守藩、今の岡山県岡山市で生まれます。
当時の日本は化政文化と呼ばれる時代で、江戸を中心に浮世絵や川柳、国学といった町人文化が花開いていました。
一方で日本近海にはロシアやイギリスの外国船が近づき、鎖国を続ける日本に開国を迫ろうとしていた時期でもあります。
蘭学との出会いと修行の道のり
洪庵は生まれつき体が弱く、武芸で武士として藩に仕えるのは難しいと考えられていました。
そこで体の弱さを克服するというより、頭を使って社会に貢献しようと志し、学問に励むことになります。
1826年、16歳の洪庵は父の赴任に伴い大阪へ移住します。
当時は異国船打払令が出され、海外への防衛姿勢が強まる中で、敵を知るために西洋の科学技術や医学を学ぶことが流行し始めていました。
洪庵は大阪の蘭学医、中川一政の塾でオランダ語と西洋医学の基礎を学びます。
そして更なる高みを目指し、1830年に江戸へ留学します。
ただし当時の江戸の蘭学界は逆風の中にありました。
そんな中でも洪庵は、江戸の蘭学医の大家である坪井信道の私塾に入門します。
信道は洪庵の抜群の語学力と誠実な人柄に惚れ、塾生を率いる塾頭に抜擢し、翻訳作業を手伝わせました。
信道は原書を徹底的に読解させるやり方をとり、これは後に洪庵が開く適塾のスタイルにも引き継がれます。
洪庵はさらに、化学や元素、酸素、細胞といった用語を作った宇田川榕菴とも深く交流します。
長崎での学びと適塾の開設
江戸で約5年間の修行を終えた洪庵は、書物だけでなく西洋人から直接学びたいと考え、長崎へ向かいます。
この1830年代は、洪庵が生まれた頃とは打って変わって天保の大飢饉が起きていました。
凶作で全国が深刻な食糧不足に陥り、疫病も蔓延して社会は動揺します。それでも商人が米を買い占めたことに怒った大塩平八郎が乱を起こし、幕府の権威が揺らぎ始めます。
長崎に到着した洪庵は、オランダ商館のヨハネス・ニーマンの協力を得て、出島で最新の内科学と臨床を学びます。
ニーマンは医者としてではなく、出島の最高責任者であるオランダ商館長、当時カピタンと呼ばれた立場でした。医学にも詳しく、日本の若い蘭学医たちの学びをバックアップした人物だと説明されています。
一人前となった洪庵は大阪に戻り、1838年、28歳の時に蘭学塾の適塾を開設します。
適塾は、来た学生にオランダ語の原書を自力で読み解かせるやり方をとりました。
たった一冊だけあったオランダ語の辞書を、生徒の中で奪い合うような感じで、みんな切磋琢磨しながら寝ずに勉強したみたいですね。
この適塾からは、長与仙斎、福沢諭吉、大村益次郎など、明治で活躍する人物が数多く輩出されました。
腕から腕へ、ワクチンをつないだ命のリレー
医師であり教育者でもあった洪庵が最も心を痛めていたのが、当時の日本で猛威を振るい、乳幼児の最大の死因となっていた天然痘でした。
イギリスのジェンナーが開発した牛痘法が有効だと書物では知っていたものの、日本にはまだ生きたワクチン株がありませんでした。
1849年、長崎のオランダ商館員オットー・モニッケが日本にワクチン株を持ち込みます。
ただ、当時は冷凍技術がなく、赤道を越えて生きたウイルスを日本まで運ぶのは至難の業でした。何度か失敗もあったと語られています。
運び方はこうです。ヨーロッパでは子供の腕に傷をつけて牛痘を植え、できた水ぶくれの膿を次の子供へ植え継いでいきました。
遠くへ運ぶ際は、牛痘がかさぶたになったところをガラス板に挟んで持ち運びます。着いた先で牛の肉の煮汁などを加えてかさぶたを溶かし、ウイルス液を作って子供の腕に植えました。
めちゃくちゃ原始的ですね。
めちゃめちゃ原始的ですね。
期間が長くなるとウイルスは感染力を失います。ウイルスは熱にも弱く、赤道を越える間に感染する力をなくしてしまうことがありました。
そこでオランダは、植民地だったインドネシアで一度子供に植え継ぎ、ウイルスを新鮮にしてから長崎へ運びました。
オランダ
牛痘のかさぶたを出発点として送り出す
インドネシア
一度子供に植え継ぎ、ウイルスを新鮮にする
長崎・佐賀
上陸後、藩医が自分の子供らに接種し定着
京都
蘭学医に伝わり、株が増えていく
大阪
洪庵が子供を連れて京都へ行き、大阪へ持ち帰る
長崎に上陸した株は、佐賀の藩医・奈良林宗健が自分の子供を含む子供たちに接種して定着に成功させます。
その苗は京都の蘭学医・日野貞斎へ送られ、京都で株が増えていきました。
京都での成功を聞いた洪庵は、すぐに大阪の子供たちを連れて京都へ向かい、その腕にワクチンを植えて大阪へ連れ帰り、さらに別の子供へ植え継いで株を増やしました。
除痘館の設立と「牛になる」デマとの戦い
洪庵はこの苗を絶やしてはならないと決意し、私財を投じて大阪の心斎橋付近に日本初の組織的なワクチン接種の普及機関、除痘館を設立します。
除痘館に行けば子供が天然痘にかからないと評判になり、次々と子供が連れてこられました。
さらに適塾には全国から医学を学びに来る人がいたため、彼らが帰郷する際にかさぶたを託し、無料で全国に配ったと語られています。
こうして牛痘接種は日本各地に広がっていきますが、デマや反発もありました。
牛痘を受けると牛になるというデマや、西洋の怪しい呪術だという噂、伝統的な漢方医からの嫌がらせや反発にも直面します。
洪庵はそのようなことはないと示すため、自らの子供や近しい子供たちに接種を行い、牛にならないこと、そして天然痘にかからないことを証明しました。こうしてデマは次第に消えていきます。
洪庵の死と、長与仙斎が制度化したワクチン
1862年、洪庵はその手腕を評価され、幕府の要請で江戸へ赴任します。将軍の主治医、西洋医学所の頭取に就任し、医学教育の普及を命じられました。
しかし激務の中で突然吐血し、53歳で亡くなります。江戸時代が終わるわずか5年前、1867年のことでした。
洪庵が残した近代医学の精神と天然痘の株は明治政府に引き継がれ、特に弟子の長与仙斎が制度化を進めます。
長与仙斎は岩倉使節団の一員として欧米の医療体制を視察し、国家が国民の健康を守るには公衆衛生の仕組みが重要だと学んで帰国します。
帰国後、長与は「衛生」という言葉を作り、その概念と言葉を日本に定着させようとしました。
初代の内務省衛生局長に就任した長与は、天然痘ワクチンを国の法律として制度化していきます。
1876年、明治9年に全国民へ接種を義務付ける種痘規則を制定します。
天然痘のワクチンをみんな打ちましょうってこと?
とみー さんからの質問
その通りで、全国民に打たなければ意味がないという考えから、かなり厳しい規則が作られました。
規則では、生後70日から満1歳までの乳幼児への初回接種を義務付け、さらに免疫低下を防ぐため7年ごとの追加接種も定めました。
逃げ回る人をあぶり出すため接種を戸籍に書き加え、学校の入学や就職、旅行の際には接種証明書の携帯を義務付けます。正当な理由のない拒否には罰金などの罰則も設けられました。
こうして接種は義務化され、日本から天然痘が減っていきます。同様の仕組みは各国で行われ、1980年にWHOが天然痘の撲滅を宣言しました。
DNA解析で判明した、効いていたワクチンの正体
近年のDNA解析によって、当時使われていたワクチン株について面白い事実が分かってきたと紹介されます。
ジェンナーは牛痘ウイルスを人に接種したつもりでした。人の天然痘は致死率が約30%あるため、牛痘なら軽く済むと考えたのです。
ところがDNAを調べた結果、ずっと使われてきた天然痘ワクチンは牛痘ではなく、ワクチニアウイルスという別のウイルスだったと分かりました。
それでも同じ種類のウイルスだったため、人の天然痘にちゃんと効いて免疫がついていたのです。
さらに自然界で近いものを調べると、馬の天然痘である馬痘ウイルスに極めて近かったことが分かりました。ワクチニアウイルスは馬痘ウイルスと遺伝子が99%ほど一致していたそうです。
牛痘がどこかで馬痘にすり替わったのか、最初から馬痘だったのか、人から人へ植え継ぐ間に変異したのかは謎のままだと語られています。
効果があったから。
効果があったから、結果オーライで、200年以上にわたって人間の中で大切に使われて、天然痘を撲滅することに成功したというオチがあります。
いつの時代もあるデマの話
最後に、二人はワクチンにまつわるデマについて語り合います。
とみーさんは、打ったら牛になるというデマが、いつの時代にもあるものだと感じたと話します。
ワクチン打ったら磁石がひっつく体になるみたいな。私あれ本当面白くて忘れられなくて。
人体に磁石はつかない。
当時は「牛になる」というデマに合わせて、接種した場所から牛の顔が生えてくるような新聞挿絵まで描かれたと紹介されます。
それスイカの種飲んだら腹からスイカ生えてくるみたいな、そういうやつじゃん。
そうしたチラシは複数のバージョンが流行し、日本にも伝わってきました。まだ科学知識が広まっていない時代だったため、庶民はかなり恐れたと語られています。
まとめ
日本の天然痘ワクチンは、腕から腕へ生きたウイルスをつないだ命のリレーと、デマや反発に立ち向かった緒方洪庵たちの努力によって根付きました。後の制度化や、実は違うウイルスでも効いていたという事実まで含めて、ワクチンの「効果」がどう証明されてきたかを振り返る回でした。
- 緒方洪庵は私財を投じて日本初の接種機関「除痘館」を設立し、ワクチンを無料で全国に広めた
- 冷凍技術のない時代、株はインドネシアを経由し子供の腕から腕へ植え継がれて大阪まで届いた
- 「牛になる」というデマに対し、洪庵は自らの子供らへの接種で安全性と効果を証明した
- 弟子の長与仙斎が「衛生」の概念と種痘規則を通じてワクチンを制度化し、天然痘撲滅につながった
- 後のDNA解析で、効いていたワクチンは牛痘ではなく馬痘に近い別のウイルスだった可能性が判明した

